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師と弟子

1月6日。東京・千葉など、関東地方が大雪に見舞われた。
ツイッターのタイムラインは、「雪だるま」「大雪」などのワードを付したツイートや、白く染まる街・自作の雪だるまの写真で、満たされていた。
京都に住む私のもとには、東京在住の友人数人から、「作ってみたよ」という一言を添えて、ユニークな雪だるまの写真が送られてきた。雪だるまには、まったく表情をもたないものから、「どこから調達してきたの?」と訊ねたくなるほど、完璧な眼鼻・腕をもったものまでいた。

ツイッターのタイムラインを眺めていると、一つのツイートが目にとまった。それは、岩波書店の公式アカウントの呟きである。
「東京は #雪 が強くなってきました。お仕事や学校等で外出中の方は、くれぐれも足元にお気を付けください。在宅中の方には、こんな日にふさわしい一冊を。」という文章とともに、岩波書店から刊行された二冊『雪』と『雪は天からの手紙』がお勧めされていた。
「なかなかいいチョイスだな」と思いつつ、このツイートに触発されて、「近いうちにどちらかを読もう」と心に決めた。

『雪』『雪は天からの手紙』ーーこの二冊を著したのは、物理学者であり名随筆家でもあった中谷宇吉郎である。彼の名文が多数収録された『中谷宇吉郎随筆集』(岩波文庫)は、私自身時折読み直している。

中谷宇吉郎の師匠は、物理学者で優れた随筆を数多く残した寺田寅彦である。彼の「地震」にまつわる警句の中には、現代人も耳を傾けるべきものが多い。

そんな二人の関係性について、杉山滋郎『中谷宇吉郎』(ミネルヴァ書房)を読んでいたら、興味深いエピソードを見つけた。それは「随筆」に関するものである。

「中谷が、初めての随筆集『冬の華』を岩波書店から出し、随筆家としてデビューしたのも一九三八年である。この意味でも一九三八年は、中谷にとって飛躍の年だった。
 中谷が専門論文以外の文章を発表することを、師の寺田寅彦は禁じていた。若いころ理学部の雑誌に発表した随筆を読んで、文章がうまいだけに身を誤るといけないと考えたのである。その禁が、一九三八年夏ごろに解けた。」(杉山滋郎『中谷宇吉郎』ミネルヴァ書房、P42)

中谷宇吉郎、おそるべしである。名随筆家として知られた寺田寅彦に、執筆を禁じられていたほどの人物が書く随筆が、名文でないわけがないことが、このエピソードからひしひしと伝わってくる。
中谷が初めて随筆的なものを書いたのは、東京朝日新聞の「科学時評」からだった。この文章は好評だったようで、そこから執筆の依頼を受けるようになっていく。
この新聞寄稿のきっかけをつくったのが寺田寅彦だった。寺田が新聞記者に中谷宇吉郎を紹介したのだという。そのことを知った中谷は、自身の妻に対して、「新聞や一般雑誌に書いてよいと、寺田先生からはじめてお許しがでたよ」(『中谷宇吉郎』ミネルヴァ書房、P42〜43)と語り、とても喜んだという。
強い信頼関係で結ばれた師と弟子の姿が、ここにはある。


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