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在野研究一歩前(19)「読書論の系譜(第五回):澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)⑤」

前回に引き続き、澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)の「読書論」について見ていきたい。今回は「第五章」の内容である。

「第五章」(該当ページ:P42~48)
「讀書法の第一要義ハ注意して讀書すへしと云ふにあり、今や進んで如何なる書籍を讀むへきやの問題に移らんとす、讀書法ハ此問題を解して一定の書籍を選みて之を專讀すへしと云ふ」(P42)
「今日の學生多くハ此規則を破りて顧みす、讀書の利益を減殺すること少しとせす」(P42)
⇒前章では、読書法において最も重要である「注意をもって読書すべし」について述べてきたが、今回の第五章は次の段階として「どのような書籍を読むべきか」に議論が進む。澤柳はこの問いへのアンサーとして「専読」の重要性を説いている。
 「専読」……? 聞きなれない言葉である。
 澤柳はこの「専読」の規則を守っていない学生が多いことを嘆いている。

「凡そ有益なる智識ハ明確ならさるへからす、又相聯結せる系統を成すものならさるへからす、而して此の如き智識を得んと欲せハ必す一定の書籍を專讀するを要す」(P43)
⇒有益なる知識は明確なものでなければならず、また種々の知識は相互作用によって一つの系統となるものでなければならない。このような条件を充たす知識を獲得しようと思えば、必ず「専読」の姿勢が必要となってくる。

「ジエームス、ミル氏か其子ヂョン、スチュアルト、ミル氏を敎育せし法を觀るに大にミルトン氏の執る所に勝るか如し、去りなから氏も亦多讀を以て良法と思惟したるものの如し、但しミル氏ハ特に專攷の書を定めさりしのみにして其好む所の書籍ハ能く之を熟讀して自ら雜讀の弊に陷らさりしと云ふ」(P44)
ジェームズ・ミル(1773年4月6日 - 1836年6月23日)はイギリス・スコットランドの歴史家、哲学者である。この引用文では、彼が息子のジョン・スチュアート・ミルに行なった教育法(主に、読書法)と、ミルトンのそれとが比較されており、前者の方が優れているという判断を示している。ジェームズ・ミルは「読書」において「多読」を重視していたけれども、それと同様に「熟読」することも忘れなかった。

「學術の完成と速成とを欲する者ハ必す一定の過程により一定の良書を專攷すへきなり、面して注意力を散佚せしめす目的を一にして專修するハ實に速成及ひ完成の秘訣なりと知るべし」(P45)
⇒「学術(学問)」をいちはやく修めたいと思う者は、良書の「専読」を試みるのが良い。「専読」の利点は、注意力の散漫を防げるところにある。

「專讀書を一定すへしとの規則ハ其適用無限にして例外あるなしと云ふも敢て不可なかるへし」(P46)
⇒「専読」の規則は、なにも「学術」的な書籍に限ったものではない。それは、小説や詩集においても適用することができる。
 しかし、本文中では、「ならば、小説を専読するとはどういうことか?」についてのアンサーは示されていない。自分なりに答えを考えるとすると、例えば「ミステリー小説」というジャンルに絞って小説を読み進めていくと、「この話の展開だと、犯人は……」といった感じで、ある程度の予測がたてられるようになる。それはある意味では「ミステリー小説」のプロットについての認識が深まっていっているということであり、これも立派な「学術」的な態度であると言える。

「若し又極端に走り唯一の書籍を專攷せハ其他を顧みさるも可なりとなすに至りてハ、甚た此に主唱する所の精神に違ふものと云はさるへからす、盖し古代載籍ありて以來完全無缺の書籍ハ未た曾て之れあらさるなり、故に若し一書に拘泥するときハ如何なる良書と雖も誤謬に陷り偏見に流れしむることあるを免れす、左れは一書を熟讀し了れハ他の良書を擇みて參讀し、以て既得の智識を硏磨校覈せさるへからす、然るときハ彼此互に相發揮して得益實に大なりとす」(P48)
⇒これまで第五章では、「専読」が強く勧められてきたが、そこには一応の「適度さ」が必要になってくることにも、澤柳は触れている。
 古今東西のあらゆる書籍に目を向けたところで、世のすべての事象について書かれている書籍は存在しない。つまり、一冊の本を「専読」するという行為には、必ず「取り上げられない情報」が生じるというマイナス面があるのだ。このことを踏まえた上で、「専読」+「熟読」には、必ず「参読」も加えておかなければならない。

以上で、「在野研究一歩前(19)「読書論の系譜(第五回):澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)⑤」」を終ります。お読み頂きありがとうございました。

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