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不在

 みなさんは、春夏秋冬、どの季節が一番嫌いだろうか。
 私の周りでは、ダントツで「春」が不人気である。
 夏は暑くて息苦しい。冬は寒くて身動きできない。そんな不満が吐かれたあとに、「いや、でも、春が一番好きじゃないかもな」と続く。
 複数人に訳を訊いたところ、共通していたのは「寄る辺なさ」。つまり、「この季節に、私の居場所はない」という感覚である。
 春は始まりの季節。多くの人が一斉に走り出す中で、一人だけスタートの白線に立てていない自分がいる。この自己認識が、「寄る辺なさ」につながっていると考えるが、どうだろうか。

「失くしたものがある。亡くなった人もいる。去年の桜は一緒に見ていた、笑っていた。けれどこの春その人はいない。でも桜は今年も咲いている。
 過ぎ去って還らないもの、失われて戻らないもの、その不在の感覚が、けれども春になると変わらずに咲く桜の花に、その満開に、鮮やかに痛いのでしょうね。」
池田晶子『暮らしの哲学』毎日新聞出版、P11)

 引いたのは、『14歳からの哲学』で知られる、作家・池田晶子のエッセイからの一節。本書の初読は、数年前の春。桜見のできる公園のベンチで、塩おにぎりか胡麻塩おにぎりかをぱくつきながら読んだ。
 必ず巡ってくる「春」、その象徴としての「桜」。それに触れることによって私たちは、季節が一巡する中で失ってしまったものに気づく。池田のいう「不在の感覚」だ。そして、その感覚には「痛み」が伴っている。

 私は冒頭で「寄る辺なさ」の話をした。これも一つの「不在の感覚」である。池田の指摘するそれが、去年は共にいた人が今年はいない、という「他者の不在」であるならば、「寄る辺なさ」は「春」という季節に居場所を見出せない「自己の不在」である。
 「春が好きではない」という言葉が口にのぼるとき、そう発した人の心中では、この二つの「不在の感覚」が疼くのかもしれない。

 こう語ってくると、あたかも「不在の感覚」さえなければ、春を爛漫に過ごせるように感じてしまうが、勿論そんなことはない。
 隣の芝生は青い。スタートラインに立つ、まさに春のど真ん中にいる人も、個々別々の不安や焦慮を抱えて、日々を生きている。

 次に来る春が、少しでも朗らかな季節になりますように。



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