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想像力

 小説は読者の想像力に頼りすぎだと思う。
 これは、映画好きの後輩さんの口癖である。彼に誘われて映画を観に行くと、必ずこの文言を耳にすることになる。
 実際に体験したり、映像に触れたりしない限り、活字の情報からある光景をイメージするのには限度がある。例えば、戦地を舞台にした小説を読むとき、そこで喚起されるイメージの多くは、既存の戦争をテーマにした映像作品に拠っているところがある。活字から想像力だけで、戦地の惨状をイメージするのは不可能である、と。
 小説とは違って、映画は逃げない。観る側に示したい光景があるなら、それをあらゆる技術を使って、一つの映像に結実させる。

 上記の後輩さんの主張を聞くたびに、私は「うーん……」と唸ってしまう。
 言いたいことが一ミリも理解できないわけではないが、賛同はできない。
 一番の意見の違いは、活字に対する評価である。後輩さんが「限界」を見出す点に、私は「可能性」を見ている。

「現実というのは、言葉ほどは整然としていない。たとえば、舗道ひとつとっても、その表面の凸凹とか、端からひしゃげた雑草がはえていたり、ガソリンがこぼれ落ちたのか黒ずんでいる部分があったり、わけもわからない吐瀉物がこびりついていたり、よく見れば見るほど、とりとめもなく汚れ、汚れているという言葉では言いあらわせぬ蓄積された年月を感じさせられる。
 いや、これでさえもたまたまイメージした舗道であり、現実の道路は種々雑多。」
『井坂洋子詩集』角川春樹事務所、P88)

 詩人・井坂洋子の詩集から一節引いてみた。ここで井坂は、現実空間の中の「舗道」を題材にして、"舗道"という漢字二字では到底言い尽くせないほど、現実には「舗道」が無数に存在することを指摘している。
 ここから「活字には限界がある」という主張を読み取ることは可能だが、別の見方もできる。ある一つの言葉は、あらゆる現実を想像させる潜在力を秘めている。読者にある一つのイメージを強いない。現実が無数に存在する事実を受け止めるのだ。

「私には言葉や映像ですら再現不可能な現実のとりとめのなさが救いに思える。名づけられず、掬いきれず、尽きせぬから、たとえ私の脳が壊れて言葉を失っても、安心して舗道を歩いていられる気がするのだ。」
『井坂洋子詩集』角川春樹事務所、P88〜89)

 小説と映画の優劣比較ーー井坂はそもそもこの土俵にあがらない。
 言葉であろうと映像であろうと、現実の多様性を前にすれば無力である。ただ無力であるからこそ、そこに表現の無限の可能性が開かれている。



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