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古本市のない生活⑩「古本屋で出会いたくない本」

今回は、作家・遠藤周作の「古本話」を二つ紹介したい。
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○今回の一冊:遠藤周作「古本のたのしみ」&「ファン」(『ぐうたら人間学 狐狸庵閑話』講談社文庫)

アナトール・フランスはよくセーヌ河岸の古本の露店を歩き、そのなかから埃に埋もれた珍書や古書を発見したというが、私が若かりし頃、はじめてかの国に遊学した時、この巴里のセーヌ河岸の古本露店に飛んでいったのだが、もうその頃は、珍書も古書もなく、ガリマール社から出しているセリ・ノワール叢書の探偵小説や怪しげな恋愛小説がパラフィン紙に包んで並べられているだけで、多少ガッカリした記憶がある。
 私には珍書や初版本、稀覯本を集める趣味は全くないが、それでも古本屋を歩きまわるのは嫌いではない。古本の持っている独特のカビくさい臭いもさして苦にならない。
 珍書や稀覯本には縁が遠いが、それでも自分が探して見つからなかった本が、地方都市の古本屋で無造作に転がっているのを見つけた時は、
(あった)
 まるで自分の受験番号を入試発表の紙から見つけた受験生のように体を震えるのを感じることがある。
 数年前、必要あって切支丹関係の本を集めていたことがあったが、神田のT書店という小説家の資料収集を専門にしている店でさえ探せなかったものを、京都の古本屋で、全く偶然に見つけた時、しかもその値段があまりに安いのを裏表紙を見てわかった時、
(イ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ)
 下品な笑いが顔に浮んだのを今でも記憶している。
 古本を買ってそれを読む楽しさのなかにはその頁のところどころに、前の持主の感想が書きこんであったり、赤いラインが引いてあるのを見て、その人がどういう読み方をしているのか、推理できるところにある。
 しかし経験上、赤線の引いてあるのが多い時は、前の読者がその本を本当は理解していないのだとすぐわかる。本の読み方を知らないのである。
 時にはその本のなかから、古い葉書などが出てくることがある。
 おそらく、前の持主が何げなく、シオリの代りに入れたにちがいないのだ。
 そういう葉書を見ると、前の持主の生活や経歴が何となくわかるような気がして、
(よう、先輩)
 と一種のなつかしさをおぼえるものである。
 こんな経験があった。
 本郷の古本屋で、たまたま、マルセル・アルランという仏蘭西作家の本を手に入れ、まだ半分も頁の切っていない(仏蘭西の書物には頁を切っていないのが多い。近頃は大分、なくなったが)のを見て、途中で放棄したなと思いながら、読んでいると、その中から一枚の半紙が出てきた。
 みると、欠席届と墨で書いてある。
「私、風邪のため、×月×日、欠席いたしました。右、お届け申し上げます」
 つまり、そういう意味のことが、筆で書かれていて、最後に一高の校長の名が上に記載され、その下に当人の名がしたためられていた。
 その当人の名を見ると、何と文芸評論家中村光夫氏の本名ではないか。若かりし頃、一高生だった中村光夫氏が欠席届を書いて、この原書のなかにうっかり、はさんだのだとわかった。可笑しかった。古本を買う楽しみはにはこういう附録もついているのだ。
」(P153~155)

一つ目は「古本のたのしみ」。
フランス遊学時代に、アナトール・フランスに感化されて、「古本露店」に足を運んだ話や、神田の古本屋でも手に入らなかった本を京都の古本屋で見つけた話、入手したあるフランス作家の本に一高生の欠席届が挟んであった話など、どれも「古本好き」にはたまらないエピソードとなっていた。
私自身、作家の「古本話」に触れたりすると、いてもたってもいられなくなって、古本屋に自転車を走らせることがある。また、近代日本の某哲学者のサインが書かれた本を手にして、「これは〇〇の蔵書だったのだろうか」と妄想したこともあった。
「古本のたのしみ」には、古本好きなら一度は経験したことのあるエピソードに満ちていた。

古本屋に行って、偶々、自分の本が書棚にあるのを見るのは、作家にとってあまり気持のいいものではない。
 特にそれが力をこめて書いた作品であると、
(どうして、いつまでも愛読してくれなかったのか)
 という不満が一寸、心に起るのはやむをえない。
 ウヌボれるなと自分で言いきかせてみるが、これは私だけでなく、すべての作家の気持であろう。
 逆に新本屋に行って、たまたま、私の著書を買ってくれている人を目撃すると、非常に嬉しい気のするのも人情であろう。その人の本で悦んでサインをしたい衝動にかられるぐらいである。
 逆に、しばらく私の本をとり出して、考えこんで、迷った揚句、また書棚に戻し、その隣にある別の本を買ってしまう読者をみると、
(チェッ)
 と舌打ちをするのも当然の話だ。
 作家など、聖人でも悟りをひらいた男でもないから、このくらいの感情はゆるしてもらいたい。
 いつだったか、こんなことがあった。
 Tホテルのティー・ルームでお茶をのんでいたら、一人の青年がつかつかと寄ってきて、
「あの……遠藤さんでしょうか」
 と声をかけてきた。
 私は自分の読者だと思ったから、平生の仏頂面を捨てて、出来るだけ愛想よく、
「ええ、そうですよ」
「あの……二分ほど、お話していいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ」
 ファンは大事にせねばならぬ。私はボーイをよび、紅茶をもう一つ、彼のため注文してやったのである。
 ところが、この青年、
「遠藤さんは、北杜夫さんをよく御存知だそうですね」
「ええ。よく知っています」
「ぼくは、北さんの大ファンなんです。ですから北さんの話、きかせて下さい。あの人は実生活でもあんなに楽しい人ですか。本をよむと実に魅力的ですねえ」
 私のとってやった紅茶を飲みながら北、北と北の話ばかりする。
(チェッ)
 真実、私は胸中、舌打ちした。この紅茶代、北にまわしてやろうかと思ったぐらいだ。
「北さんて写真でも魅力的ですね」
「そうですかね」
 こちらは次第に仏頂面になっていく。
「あの人のマンボウもの、全部、持っているんです」
「そうですかね」
「実に、品のあるユーモアです」
「へえ。そうですかね」
「じゃ、ぼく、失礼しますけど」
 紅茶を飲みおわると彼は礼儀正しく頭をさげて、
「ごちそうさまでした。どうぞ、北さんにお会いになったら、健康に気をつけて、ますます、作品を書いて下さいと伝えてくれませんか」
 だれが伝えてやるもんかと、私はムッとした顔で彼を見送っていた。
 あとで考えてみると、この青年、私にわざとイヤがらせをしたのかもしれぬ。
」(P156~158)

二つ目の文章は、一作家の心情が赤裸々に語られているもので、非常に興味深い。
自分の作品が古本屋の棚に並んでいるのを見て、「どうして、いつまでも愛読してくれなかったのか」と溜息を漏らし、一方新刊書店で自著を手に取る人を見かけると、心から喜ぶ。そして、買うか買うまいか悩んで、結果的に購入しなかった人に遭遇したならば、「チェッ」と舌打ちするーー面白すぎる。
私は作家の書いた随筆や自伝などをよく読むのだが、案外自著の行く末を気にしている文章に出会ったことがない。同時代の作家や文芸評論家からの評価・批評を気にする人間は多いが、「古本屋に私の本が!!」と嘆く人間は目にしたことがなかった。もしかすると、遠藤と同じような考えを持っていた人はいたのかもしれないが、それをあえて口にするのは避けた方がいいと判断したのかもしれない。そういう意味で、今回の遠藤のエピソードは貴重であると言える。
「ファン」の最後では、遠藤周作に話しかけてきた青年が、ひたすら「北杜夫」について語り続けるという、遠藤からすれば苦々しいことこの上ないエピソードが紹介されている。「こんな失礼なことをする人間がいるのか……」と唖然とするとともに、必死に怒りを抑える遠藤周作の姿に、思わず笑ってしまった。

近いうちに、また遠藤周作の作品を読み直してみたい。

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