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びいと啼尻声かなし夜の鹿|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

びいとなく尻声しりごえかなし夜の鹿 芭蕉

鹿の鳴き声の句

 元禄七(1694)年の秋は、芭蕉の生涯最後の秋となる。しばらく故郷の伊賀上野に滞在して、俳諧撰集『続猿蓑』の編集を行っていた。門弟支考の助力を得てそれを完成させた後、芭蕉は老いて弱っていた体調を押して、大坂へと向かう。対立を深めていた二人の弟子、洒堂しゃどう之道しどうとを和解させなければならないと思ったのだ。その途中、奈良に寄っている。掲出句は奈良に入った九月八日夜の作である。

 句意は、「『びい』という長くあとを引く声が悲しい、奈良の夜の牡鹿は」。芭蕉は「びい」と鹿の鳴き声を聞き取っている。この「びい」という音が、印象的であり、忘れがたい。音、鳴き声そのものが詠まれている句は珍しい。

 掲出句は同行の弟子支考の著書『笈日記』所載。同書の中で、掲出句の成立事情を書きのこしている。「その夜は月も明るくて、複数の鹿の声が乱れて聞こえたのが、しみじみと趣深いので、夜の十二時前後に、宿を出て芭蕉先生は猿沢池のほとりを吟行しました」。

 今日は芭蕉が歩いた猿沢池の周辺を歩いてみたい。奈良線奈良駅下車。九月も半ばであるが、残暑が厳しい。興福寺を目指し、南側の階段を下りれば、猿沢池である。

 もともとこの池は興福寺の放生会ほうじょうえ(捕獲した魚などを放つ宗教的行事)のために造られた、人工の池であるという。覗きこむと、亀が泳いでいる。小さな島があって、そこにはたくさんの亀がぎっしりと甲羅を乾かしていた。亀について詳しくないのだが、外来種のミドリガメが大きくなったものが多いのではないか。現代においても個人的な放生がなされていると想像することができる。

 池のほとりに鹿も見つけた。空き地で、草を食べている。すぐそばには弁当を広げている男女がいて、小さな犬を連れていた。犬は鹿に興奮して、さかんに吠えるのだが、鹿はまったく気にしない。勢いよく草を食べつづけている。吠えたてる小さな犬よりも、鹿は強い。

 奈良の春日山は神山として、伐採が禁じられてきた。奈良の鹿は、そこにおわす春日明神の使いとして、たいせつに守られてきた。原始林からやってくる鹿は、自然そのものと言ってもいいだろう。

芭蕉、「末期の耳」

 鹿は奈良のいたるところにいたが、今回鳴き声を聞くことはできなかった。鹿の声とは、発情期の牡鹿が牝鹿を求めて鳴く切実な声である。もっと秋が深まらないと聞くことはできないのだろう。ただ、現在インターネットの動画投稿サイトというものがあって、そこで鹿の声を聞くことができた。たしかにあとを引く声で鳴いている。「びい」と書き表すのもわからないでもない。芭蕉の耳はたしかであった。

 鹿の声を聞くことで生まれる悲しさは、平安時代以降和歌で繰り返し詠われてきたテーマだ。その代表は「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」(『古今集』)。歌意は「奥山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞いているときこそ、秋という季節は悲しく感じられる」。

 芭蕉は「悲し」という語を用いて、和歌以来の伝統につらなりつつも、耳にした鹿の声そのものを描写しようとしている。まず、「びい」という音を聞き取り書きとめる。さらには「尻声」(長くあとを引く声)という歌語にはない日常語を用いて、鳴き声の特徴をつかむ。たしかにことばで音を具体的に捉えているのだ。これは芭蕉以外の誰もなしえなかったこと。老いて、衰えて、死を無意識のうちに感じていたかもしれない芭蕉の、「末期まつごの目」ならぬ「末期の耳」が、鹿の声を捉えているのではないか。

 支考が記録していた、芭蕉が深夜に鹿の声に誘われるように宿を出て「吟行」しているエピソードにも、感動する。「吟行」とは野外に出て俳句を作ること。ぼくら現代の俳人もさかんに吟行はするが、ぼくらが俳句のために出歩くのは、もののよく見える昼の間に限られる。ぼく自身は、もののかたちの見えにくくて、こころ細い夜には、行ったことはない。ぼくらの世界を捉える方法は、目に重心がかかりすぎている。

 それは、明治時代に正岡子規の提唱した「写生」、見てデッサンするように書くという方法に強く影響を受けているからなのだろう。かかる芭蕉好きのぼくでさえ、子規の写生の呪縛にとらわれていたわけだ。そもそも吟行ということばは、子規が発明したものではなく、もっと以前からのものなのである。芭蕉らの吟行は奥深い。真に芭蕉の句に学ぶとしたら、夜の句、視覚以外の感覚を生かした句にも、挑戦してみないといけない。

島をこぼれ亀泳ぎだす秋ひでり 實
鹿の糞は小さき球体ばらまかれ

※この記事は2012年に取材したものです

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


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