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芭蕉の風景

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「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の… もっと読む
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旅に病で夢は枯野をかけ廻る|芭蕉の風景

旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉弟子のいさかいから 元禄七(1694)年冬、芭蕉は大坂で死の床にあった。その模様は同行していた弟子支考の残した『笈日記』ならびに駆けつけた古参の弟子其角が記した「芭蕉翁終焉記」(『枯尾華』元禄七年・1694年刊所載)によって知ることができる。  九月初め、芭蕉は故郷伊賀を出て、奈良を経て、大坂に入った。いさかいあっている弟子二人、洒堂と之道の仲裁に追われるうちに、寒気、熱と頭痛とにみまわれてしまう。体調をおして、二人が出席する歌仙などの会を繰

びいと啼尻声かなし夜の鹿|芭蕉の風景

びいと啼尻声かなし夜の鹿 芭蕉鹿の鳴き声の句 元禄七(1694)年の秋は、芭蕉の生涯最後の秋となる。しばらく故郷の伊賀上野に滞在して、俳諧撰集『続猿蓑』の編集を行っていた。門弟支考の助力を得てそれを完成させた後、芭蕉は老いて弱っていた体調を押して、大坂へと向かう。対立を深めていた二人の弟子、洒堂と之道とを和解させなければならないと思ったのだ。その途中、奈良に寄っている。掲出句は奈良に入った九月八日夜の作である。  句意は、「『びい』という長くあとを引く声が悲しい、奈良の夜の

山中や菊はたをらぬ湯の匂|芭蕉の風景

山中や菊はたをらぬ湯の匂 芭蕉行脚のたのしび爰にあり 元禄二(1689)年、『おくのほそ道』の旅の途次、芭蕉は小松から山中へと入る。ここは行基発見とされる歴史ある温泉。芭蕉も「その効有馬に次ぐといふ」と讃える。意味は「温泉の効能は有馬に続くということだ」。曾良と金沢の俳人、北枝が同行していた。旧暦七月二十七日午後四時半、到着。発つのは八月五日昼。滞在は九日に及ぶ。ゆっくり旅の疲れを癒したが、湯に浸かっていただけではない。この地での芭蕉からの聞き書きを北枝は『山中問答』(嘉永三

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ|芭蕉の風景

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 芭蕉水門川に沿って 芭蕉は元禄二(1689)年、八月二十八日ごろ、大垣に着いた。それが東北・北陸を巡った『おくのほそ道』の旅の終わりであった。芭蕉はこの年このあとも、伊勢、伊賀、奈良、京、近江湖南と旅を続ける。それなのになぜ、『おくのほそ道』はこの地を終章としているのか。近畿の土地には深い文学の伝統がある。その土地について書いてしまうと、東北北陸の印象を削ぐ。そして、大垣自体、弟子も多く、生涯四度も訪れている地であった。芭蕉にとって落ち着ける場所だっ

川上とこの川しもや月の友|芭蕉の風景

川上とこの川しもや月の友 芭蕉小名木川は運河 掲出句は芭蕉没後刊行された俳諧撰集『続猿蓑』に収録されている。『続猿蓑』掲載の句は、門弟支考の助力を得ながら、芭蕉自身が生前選句したと考えられている。「月」という季語は「雪月花」の内の一つ。季語の世界を代表する重い季語である「月」を用いた芭蕉の自信作であった。  前書には、「深川の末、五本松といふ所に船をさして」とある。元禄六年陰暦八月十五日、名月の夜、芭蕉は、芭蕉庵から小名木川に船を出す。深川の外れ、五本松というところで、船を

数ならぬ身となおもひそ玉祭り|芭蕉の風景

数ならぬ身となおもひそ玉祭り 芭蕉亡くなった親しい女性への句 元禄七(1694)年旧暦六月、京都嵯峨野の落柿舎に滞在していた芭蕉は、江戸深川の芭蕉庵に留守の間住まわせていた寿貞という女性の死を知り、大きな衝撃を受ける。江戸の知人である猪兵衛から書簡をもらったのである。  いつも盆に故郷の伊賀上野に帰るとは限らない芭蕉だが、兄半左衛門から今年は帰るように手紙で促されて帰郷することとした。兄を始めとする親戚とともに、松尾家の菩提寺の愛染院で盆の行事を営んだ際、亡くなった寿貞のこ

閑さや岩にしみ入蟬の声|芭蕉の風景

閑さや岩にしみ入蟬の声 芭蕉薬師の顔はみちのく人 元禄二(1689)年旧暦五月二十七日、新庄盆地の南部を占める尾花沢(山形県)で十日間を過ごした芭蕉は、清風ら尾花沢の連衆に勧められて、山寺(立石寺)に参拝する。掲出句はそこで詠まれた。『おくのほそ道』を代表する名句、というよりも芭蕉の生涯を代表する名句である。  紀行文『おくのほそ道』所載。句意は「何という静けさだろうか。蟬の鳴き声が岩の内部にしみ入っていく」。  仙台駅で、仙山線に乗り換え一時間ほど乗車、山寺駅下車。ゴー

五月雨をあつめて早し最上川|芭蕉の風景

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉風流ここに至れり 大石田には最上川の港、酒田へ下る川船の発着所があった。『おくのほそ道』のなかでは芭蕉はここから乗船するために日和を待つ。その間に土地の俳人に乞われて連句を巻くのだ。それについて、「このたびの風流ここに至れり」と記している。意味は「今回の旅の風流はこの地に極まった」。実はこの記述は次の句と呼応していた。「風流の初めやおくの田植歌」。白河の関を越えた須賀川においてこの句を発句とする一巻が編まれた。これがみちのく俳諧行脚の初め。その

夏草や兵どもが夢の跡|芭蕉の風景

夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉敗者への愛 芭蕉は元禄二(1689)年の旧暦五月十三日、午前八時ごろ一関を発って、平泉を訪ねている。この地が『おくのほそ道』最北の地である。掲出句は紀行文『おくのほそ道』所載。句意は「夏草が生い茂っている、ここは義経たち勇士が奮戦した、夢の跡なのだ」。  東北本線平泉駅を降りて、駅前を右に歩む。「伽羅御所跡入口」の道標を右に見て進む。これは藤原秀衡・泰衡の居館の跡である。左側に「無量光院跡」がある。ここは宇治の平等院を模して秀衡が建てたと言われる寺

まゆはきを俤にして紅粉の花|芭蕉の風景

まゆはきを俤にして紅粉の花艶めいた句 元禄二(1689)年旧暦五月十七日、芭蕉は『おくのほそ道』の難所の一つ山刀伐峠を越えて、尾花沢へとたどり着いた。陸奥から出羽へと出て、これから日本海側の旅が始まるのだ。尾花沢には、芭蕉旧知の俳人、鈴木清風が住んでいた。豪商でもあった清風に歓待されて、芭蕉とその門弟曾良は、この地で十泊、『おくのほそ道』の旅で奥州に入ってから最長の逗留をしている。  紀行文『おくのほそ道』所載。  掲出句の「紅粉の花」は紅花。かつて当地で盛んに栽培されて

嶋々や千々にくだきて夏の海|芭蕉の風景

嶋々や千々にくだきて夏の海瑞巌寺の金壁荘厳 芭蕉にとって松島は特別の場所であった。『おくのほそ道』の旅、出立前に書かれた書簡にも、この地が目的地の一つであったことが示されている。『おくのほそ道』発端にも「松島の月先心にかかりて」と記していた。松島を見ることが旅の目的の一つであった。  まず、この地は歌枕である。「松島や雄島が磯による浪の月の氷に千鳥なくなり」(『俊成卿女集』)など月の歌も残されている。歌意は「松島の雄島の磯に寄せる浪が月光が凍ったように見える、そこに千鳥が鳴

あらたふと青葉若葉の日の光|芭蕉の風景

あらたふと青葉若葉の日の光 芭蕉裏見ノ滝と含満ヶ淵 元禄二(1689)年旧暦三月末、室の八嶋を見て、鹿沼に泊った芭蕉は、四月一日、日光に到着した。  掲出句は紀行文『おくのほそ道』所載。句意は「ああ貴いことだ、青葉や若葉の緑の濃淡に差す日の光は」。 『おくのほそ道』最初の山場である日光周辺に芭蕉の足跡を訪ねたい。JR日光線日光駅前からタクシーに乗って、まずは裏見ノ滝と含満ケ淵とを訪ねる。東照宮参拝の翌日、芭蕉が訪ねている場所である。  バス停「裏見の滝入口」から右手の細

杜若われに発句のおもひあり|芭蕉の風景

杜若われに発句のおもひあり 芭蕉業平の和歌に向き合う 貞享二(1685)年旧暦四月四日、芭蕉は尾張の鳴海宿に門弟知足の家を訪ねて一泊した。知足の仕事は酒造業、鳴海俳壇の中心人物である。芭蕉を案内したのは、熱田の桐葉ら。鳴海の俳諧仲間も集まり、全員九名で連句を巻いている。掲出句はその先頭一句目、発句である。  日付までわかるのは、知足が日記に記録していたからだ。前年秋に江戸を出て、伊勢、伊賀、大和、京都、近江を巡った、紀行文『野ざらし紀行』の旅も、終わりが近づいていた。  

行春や鳥啼魚の目は泪|芭蕉の風景

行春や鳥啼魚の目は泪 芭蕉おくのほそ道矢立初 芭蕉は元禄二(1689)年の旧暦三月二十七日の早朝、滞在していた門人、杉風の別宅採荼庵を出た。そして、別れを惜しむ門弟たちとともに、小名木川に舫ってあった舟に乗りこんだ。舟は隅田川に出て、流れをゆっくりとさかのぼっていく。千住大橋のあたりで芭蕉と弟子たちは舟から上がった。『おくのほそ道』旅立ちの場面である。芭蕉と曾良とは、約六カ月、約二千四百キロにわたる長旅に、ここから出立したのであった。  掲出句は紀行文『おくのほそ道』所載。