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夏草や兵どもが夢の跡|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

夏草やつわものどもが夢の跡 芭蕉

敗者への愛

 芭蕉は元禄二(1689)年の旧暦五月十三日、午前八時ごろ一関いちのせきを発って、平泉を訪ねている。この地が『おくのほそ道』最北の地である。掲出句は紀行文『おくのほそ道』所載。句意は「夏草が生い茂っている、ここは義経たち勇士が奮戦した、夢の跡なのだ」。

 東北本線平泉駅を降りて、駅前を右に歩む。「伽羅きゃら御所跡入口」の道標を右に見て進む。これは藤原秀衡・泰衡やすひらの居館の跡である。左側に「無量光院跡」がある。ここは宇治の平等院を模して秀衡が建てたと言われる寺院跡。田の中に盛り土が見える。このあたりは奥州藤原氏とともにひとたびほろびた地なのだ。

無量光院跡

 十分ほど北へ歩くと「高館たかだち義経堂ぎけいどう」を示す石柱が立っている。右に折れて小高い丘に登ると、そこが高館である。眺望が広がる。眼下を北から雄大な北上川が流れ下っている。『おくのほそ道』に芭蕉が「北上川、南部より流るる大河なり」と書くとおりである。意味は「北上川は南部領から流れてくる大河である」。

 案内板によれば高館の由来は次のようだ。兄源頼朝に追われ逃げてきた義経は文治三(1187)年二月、秀衡に庇護を乞い平泉にかくまわれる。しかし、同年十月、秀衡は没する。文治五年、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は父の遺命に背く。義経がこの高台にあった「衣河館ころもがわのたち」に滞在しているところを滅ぼしてしまう。

 芭蕉は敗者に愛をそそぐ。木曾義仲を愛し、その墓のある大津の義仲寺に葬られているのは有名である。同様に義経も好きであった。『おくのほそ道』ではここに至るまで、何カ所か縁のある場所を訪ねている。飯塚の里(現在の福島市)は義経の忠臣、佐藤継信・忠信の家郷であった。兄弟出陣のあと、二人の嫁が兄弟の鎧兜をつけて病床の父に凱旋のさまを見せてなぐさめた、というエピソードを、芭蕉は嫁たちの墓を見て思いだしたとしている。塩竈しおがま神社(宮城県塩竈市)では神前の宝塔の鉄の扉に「文治三年和泉三郎寄進」という文字を見いだしている。この和泉三郎は秀衡の三男、泰衡の弟にあたる忠衡ただひらであった。彼は秀衡の遺言を守って義経に忠誠を尽くし、泰衡の追討を受けて自害する。これらが平泉の伏線ともなっているのである。平泉はこの紀行中ある意味もっとも重要な土地かもしれない。

北上川

義経と西行の地

『おくのほそ道』の高館の上からの風景描写は次のように続く。「衣川ころもがわ和泉いずみが城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る」。意味は「衣川は和泉が城をめぐって、高館の下で大河に合流している」。この「和泉が城」が和泉三郎忠衡の館である。現実には衣川は「高館の下にて」ではなく高館のやや上流で北上川に流れこんでいる。「泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり」。意味は「泰衡らの旧跡は、衣が関を隔てたかなたにあって南部口を固く守り、蝦夷の侵入を防ぐかたちに見える」。兄弟同士が争わざるをえない悲劇であるが、義経贔屓の芭蕉が泰衡も淡々と描いているのがいい。

 石段を上がると「義経堂」がある。天和三(1683)年に仙台藩主伊達綱村が建てたものである。芭蕉が訪れたころには、まだ新しかっただろう。なかには義経像が収められてある。鎧兜を身につけ、その上に衣を羽織った木像である。彩色もよく残っている。なかなかのいい男である。この男の最後の地を自分の眼で確かめたいというのが、『おくのほそ道』の旅の目的の一つであったにちがいない。

義経堂

 北上川の向こうには束稲山たばしねやまが聳えている。この山はかつて桜の名所であった。ここを詠んだ西行の歌が『山家集』にある。「聞きもせずたばしね山の櫻ばな吉野の外にかかるべしとは」。意味は「束稲山の桜については聞いたことがありません。桜の名所吉野の外にこんな場所があったとは」。

 西行は二度この地を訪れている。二度目の晩年は、義経がかくまわれる一年前、文治二(1186)年である。奥州藤原氏と西行とは遠い血縁関係があった。東大寺大仏殿再建のための勧進に訪れているのである。「とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣川見にきたる今日しも」。意味は「とりわけて心まで凍み通って冷えわたることである、衣川を見に来た今日は特に」。この歌は奥州藤原氏の滅亡も予感しているとも思える。芭蕉が愛した歌人、西行ゆかりの土地でもあったのだ。

 掲出句はここ高館で詠まれた。現在の風景の奥に過去の悲劇を見ている。夏草の雄々しさが悲しく、動かない。毛越寺もうつうじにはこの句の新渡戸稲造による英訳を掲げた碑があった。この句は古戦場なら赤壁でもワーテルローでも通用する。それが名句の所以である。と同時にここでしか通用しない句が欲しいとも思う。

毛越寺の碑

 それを配慮してか、『おくのほそ道』には「卯の花に兼房かねふさ見ゆる白毛しらがかな 曾良」が添えられている。意味は「卯の花に兼房が見える、その白髪が見えてくる」。卯の花に見た幻である。兼房は義経の北の方の乳人めのと。北の方とは妻、また乳人とは保育の役をする男性である。『義経記』によれば勝ち目がないことがわかると兼房は義経と北の方を自害させ、二人の子を殺し、館に火をかけ敵を脇に挟んで火に飛び込み自害する。老齢と乳人という立場が泣かせるのだ。

 北上もさざなみどきや藤の花 實
 高館のうぐひす鳴くや強風に
 義経のはねあげ髭やさえずれる

※この記事は2002年に取材したものです

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


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