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あらたふと青葉若葉の日の光|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

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≪お知らせ≫
小澤 實 著『芭蕉の風景(上・下)』が、第73回読売文学賞で随筆・紀行賞を受賞しました。おめでとうございます。小澤さんはご自身の句集『瞬間』で第57回読売文学賞詩歌俳句賞を受賞して以来、二度目の受賞となりました。

あらたふと青葉若葉の日の光 芭蕉

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裏見ノ滝と含満ヶ淵

 元禄二(1689)年旧暦三月末、室の八嶋を見て、鹿沼かぬまに泊った芭蕉は、四月一日、日光に到着した。

 掲出句は紀行文『おくのほそ道』所載。句意は「ああ貴いことだ、青葉や若葉の緑の濃淡に差す日の光は」。

『おくのほそ道』最初の山場である日光周辺に芭蕉の足跡を訪ねたい。JR日光線日光駅前からタクシーに乗って、まずは裏見うらみたき含満かんまんふちとを訪ねる。東照宮参拝の翌日、芭蕉が訪ねている場所である。

 バス停「裏見の滝入口」から右手の細い道に入り、しばらく行くと駐車場がある。そこで車から降りて急な山道を登って十分ほど歩くと滝である。

『おくのほそ道』には「岩洞の頂より飛流して百尺はくせき、千岩の碧潭へきたんに落ちたり」と書かれている。意味は「岩の頂上から飛ぶように流れること百尺(三十メートル)、千の岩が囲む碧き淵に落ちこんだ」。数字が漢詩的に大仰であるが、高さは案外正確。現在も滝が数条落ち心が洗われる景が広がる。

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「岩窟に身をひそめ入りて滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝へはべるなり」。意味は「岩窟に身をかがめ入れて滝の裏から見るので裏見ノ滝と申し伝えている」。滝の名の由来が書かれている。裏に入りたいが岩が崩れて、今は不可能のようだ。ここが詠まれた芭蕉の句は、「しばらくは滝にこもるやの初め」。句意は「しばらくは滝裏に籠ることだ、ちょうど僧たちの夏行も始まるころだ」。これが追体験できない。

 車に戻って含満ケ淵へ。バス停「西参道」まで引き返して含満大谷橋を渡り、川上にさかのぼる。溶岩が固まった上を大谷川が流れる奇観である。淵の対岸の岩壁には不動明王を表す梵字が彫られている。これは弘法大師が対岸から筆を投げて彫ったものと伝えられるが、実際は江戸初期にこの地を拓いた晃海こうかいという僧が山順僧正さんじゅんそうじょうの書を彫らせたとも。

 修験者に不動明王が現れる場所と立て札にあるが、たしかに清らかな場所である。青い淵の中に雪折の大枝が沈んでそのままになっている。かなたの男体山(黒髪山)の残雪が輝いている。芭蕉とともに旅をした曾良の『随行日記』にはこの場所を訪ねたことがでてくるが、『おくのほそ道』には見えない。東照宮の印象を弱めることを恐れたのかもしれない。

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東照宮の杉の木

『随行日記』によれば芭蕉の日光への到着は昼ごろ。雨の中を鹿沼から歩いてきたのだが、着いたころ雨が上がった。日光という地名と到着時に晴れたという偶然が掲出句の発想のきっかけになっているのではないか。

 芭蕉はまず江戸浅草の清水寺からの案内状を持って、養源院を訪ねる。そこから案内されて、大楽院に行って東照宮拝観を願い出るが、先客があって午後三時まで待たされる。東照宮側の資料からその客は東照宮増修の打ち合わせのために来ていた絵師狩野探信かのうたんしんであることがわかっている。芭蕉が待たされていた大楽院は現在の東照宮社務所。三時間近く待たされていた間は不安だったろう。

『おくのほそ道』の日光の叙述は次のとおり。

往昔そのかみ、この御山を『二荒山ふたらさん』と書きしを、空海大師開基の時、『日光』と改めたまふ。千歳せんざい未来を悟りたまふにや、今この御光みひかり一天にかがやきて、恩沢八荒おんたくはっこうにあふれ、四民安堵のすみか穏やかなり」。

 意味は「その昔、この御山を『二荒山』と書いたのを、空海がここに寺院を創建した際、『日光』と改めになった。それは千年の未来を予見されてのことだったか、今やこの日光東照宮の威光は天下にかがやきわたり、恵みの波はすみずみにまで満ちあふれ、士農工商すべての民が安住の身を寄せる地はおだやかである」。

 ここを読んで幕府全肯定の姿勢に芭蕉の限界を見るといった感想をもらす人もいる。が、ぼくはそうは思わない。東照宮の威容を見て、徳川家の強大な力にひれ伏すだけではない。古代の山岳信仰や空海らの密教の上にその力を借りて東照宮が成り立っているというところまで見ているのだ。

 曾良が書き留めた掲出句の原案は以下である。

 あなたふと木の下暗したやみも日の光

 句意は「日光という地はその名にふさわしく木の下闇(夏の季語)といえど神の威光が届いているのである」。日光という地名と陽光とを掛けている。いささか理屈っぽい。それを掲出句のかたちにして理屈を弱めている。「青葉若葉」によって濃淡の緑が印象的な初夏の山肌を見せているのがみごとである。裏見ノ滝や含満ケ淵での豊かな自然の緑の印象も加わっているのかもしれない。「日光」という聖地の名を讃えることによって、自然賛歌と東照宮への信仰告白とを併せ行っているのだ。

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 ぼくが訪ねたのは三月中旬、まだ残雪もあったが、奥宮の家康の墓へ上っていく石段から見た杉の大木の日の斑が美しかった。その斑に芭蕉の句を思った。江戸時代にこのおくは大名しか参拝を許されなかったという。このあたりのひきしまった空気は江戸時代がそのままに残っているような気がした。

 東照宮では武士は陽明門の中の石畳、庶民は門の前に土下座して拝んだと言われている。紹介状をもらっていた芭蕉たちも一庶民として門の前で拝んだのだろうか。『おくのほそ道』は「なほはばかり多くて、筆をさし置きぬ」、意味は「これ以上言うことは畏れ多く、筆をさし控えた」と書くばかりである。

 一枚岩ゑぐりて淵や春落葉 實
 陽明門残雪の塊くづしあり

※この記事は2002年に取材したものです

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


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