財界人にして歌人・川田順が醍醐寺で感知した豊臣秀吉の寂寥
京都の東南、山科盆地にある真言宗醍醐派総本山・醍醐寺は、世界文化遺産にも指定された京都を代表する古刹の一つです。創建は平安時代に遡り、1100年以上の歴史を持っています。境内にある国宝の五重塔は951(天暦5)年に完成した、現存する京都府最古の木造建築物。ほかにも多くの国宝や重要文化財を誇る寺院です。
しかし、醍醐寺の名が歴史に強く刻まれるようになったのは、太閤豊臣秀吉による大規模な花見の宴の場所に選ばれたからでしょう。1598(慶長3)年に開かれたいわゆる醍醐の花見がそれであり、以来、醍醐寺は桜の名所としても広く知られるようになりました。
1941(昭和16)年4月、一人の歌人が醍醐寺の塔頭三宝院を訪れました。人物の名は川田順(1882~1966)。5年前まで、大財閥住友本社の常務理事として敏腕を振るっていた財界人でした。経済界から引退して京都に移住、気ままに歌作や短歌の研究にいそしむ日々を送っていました。
西端の大玄関を上って、すぐ隣の葵の間に通された。広縁を隔てて、南庭の一角を覗く。 一本の楓の大木が淡緑嫩葉を著け、ささ濁りした池水の上に真紅の椿の花が幾つか浮いている。
三宝院は醍醐寺の歴代座主の居住する本坊的存在です。葵の間の襖には葵祭の風景が描かれ、ここから見える黒い漆塗りの唐門は1599(慶長4)年に建立された国宝の勅使門。2010年の修復工事で創建当時の姿に復元されました。
鶯がしきりにさえずる。「いい声ですな」と月並に賞めると、案内の坊さんの言うことには、「鳥の声を聴くには明け方が一番よろしいです。いろいろの小禽*が鳴きます。先刻まで小啄木も来ていました。鶯は羽族中の朝寝坊なので、今自分鳴いているのです」。僕は耳が痛かったけれども、「鳥にすれば鶯かしらん」と思いなおして、いささか自信を強くした。
東京・浅草に生まれた川田は、一高から東京帝国大学に進学。住友本社に就職し、一流の経済人として実業界で活躍します。そのかたわら、16歳で佐々木信綱に師事し、歌人としても活動を開始。歌壇でも実力を発揮し、『伎芸天』『山海経』『青淵』『旅鴈』などの歌集を次々に刊行。歌壇の重鎮の地位も確立しました。しかし、住友を退社した3年後に妻を亡くし、1940年からは還暦に近い年齢で京都に一人暮らしをするようになっていたのです。醍醐寺を訪ねたのは、そんな時代の春の朝でした。
御茶を頂戴して、腰を上げた。秋草の間・勅使の間・寝殿・松月亭・護摩堂・白書院という順序で一めぐりした僕は、最後に純浄観へと階段を上がった。純浄観は三宝院の東端に、一段と高く建てられた茅葺きの別棟である。上醍醐への途中のやり山(千畳敷とも言う)に在った豊太閤*の観花亭を、秀頼の時代になってここに移建したものと言い伝える。
僕は、五七の桐及び桜の花を描いた「花見屏風」の古びた一双と、堂本印象画伯筆の新しい障屏画*とを瞥見した後、広縁に出て、きゃしゃな白木の勾欄に寄りかかった。午前八時頃の日光が、夏の間近さを思わせて、池水や石組に明るく降り注ぐ。
醍醐寺は、山の上にある上醍醐から旧奈良街道に面する下醍醐まで、寺域は約200万坪にもおよぶ広大な寺です。しかし、応仁の乱や戦国期の戦火により多くの建物が焼失するなど荒廃。秀吉が醍醐の花見を契機に再建を図りました。三宝院はその中心として整備され、特に庭園は秀吉自らが基本設計をしたといいます。
眼前の林泉は桃山時代の最もすぐれた名園と聞くけれども、その方の予備知識に乏しい僕にとっては、折角ながら豕に真珠というものだ。
なぜあの隅に滝が二段*になって落ちて居らねばならぬのか。なぜ土橋があのような反りを持って、しかも二つ*まで架けられねばならぬのか。なぜ中島の松の葉があのような格好に刈り込まれねばならぬのか。なぜ「藤戸石」があんな所に孤立していねばならぬのか。なぜひょろ長い松の幹が一本、背景の深雪山を両分して立って居らねばならぬのか。
ただし、なぜこんなに多くの立派な庭石が集積せられ、濫費せられねばならなかったのか、という問題だけは、容易に解釈することが出来た。豪放な豊太閤が好みのゆえに相違ない。
三宝院の庭園は桃山文化を代表する名園として、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。池があり、滝があり、築山のある出島があり、池中の島があり、各所に豪快な石組があり、まさに神仙蓬莱の世界を想像させる庭です。
池の南岸に立つ長方形の石が、表面に独特の紋様を持つ藤戸石です。現在の岡山県倉敷市藤戸町産出と伝わる名石で、「天下を治める者が有する石」とされ、その後、足利将軍家、細川管領邸、織田信長の所有を経て、秀吉の命により聚楽第から三宝院に運びこまれました。「主人石」として庭園の中心に据えられています。
名園の眺望よりも、僕にとっては、この勾欄の手ざわりの方がなつかしかった。慶長三年三月十五日、日本一の観桜会の時、豊太閤の皺苦茶な手も、小児秀頼のふくよかな手も、松の丸殿*のやわらかな掌も、この勾欄に幾度か触れたに違いない。温みさえも微かに残っているかと疑う。
川田が庭園を眺めていた場所は純浄観という建物の広縁でした。実はここは、秀吉が上醍醐の槍山で醍醐の花見をした際に実際に使用した建物を移築したと伝わるものなのです。庭園を望む広縁には細い木の欄干がしつらえてあり、その木に触れた川田は300年以上前の人々の気配をそこに感じたようです。
豊太閤は醍醐寺の「たましい」であり、この英雄無かりせば三宝院の春もさまで絢爛でなかった。この庭園にしろ、建築にしろ、平安朝の寝殿式から室町時代の書院風まで取り入れて破綻を示さないのは、秀吉のたましいが力強く統御しているゆえだ。(略)
慶長3年の観桜会、いわゆる醍醐の花見は不世出の英傑・秀吉の最晩年の催事であり、桃山時代の掉尾を飾るにふさわしい華やかなイベントでした。秀吉は愛息の秀頼(4歳)、北政所や淀殿ら近親者、親しい大名とその配下の女房女中衆ら約1300人を召し従え、満開の桜を楽しんだと伝えられます。
按うに豊太閤は死期を予感していた。慶長三年といえば第二次朝鮮役の最中であったが、その三月十五日という日を手形の期日の如く独り堅く決めて、万端の準備を急がせた。同年二月九日以降、観桜会の日までに、彼は数回当山をおとずれ、万事をみずから督励した。
五重塔を修繕すること、金堂及び仁王門を紀州湯浅から移建すること、三宝院の寝殿を新築すること、馬場さきからやり山まで桜樹七百本植えつけること、千畳敷に観花亭を造営すること等々。それらをば殆ど信ずべからざる短日月の間に遂行させた。「今年の春を過ごしては」という予感があったに相違ないと思う。(略)
川田は華やかな観桜の宴の背後に、死期を悟った権力者の孤独を感じていたようです。それは、妻を亡くし、すでに晩年を迎えていた自分の姿に重ねる意識もあったのでしょう。事実、秀吉が現世で見た桜は醍醐寺が最後となりました。
こうして、日本一の観桜会を催した年の八月一八日、秋風に吹かれる桐の一葉の如く散り失せたのであった。ただ今僕の眼前を、散りかかる花にまぎれて胡蝶が舞い、一匹の赤蜂が飛んで来て勾欄にとまった。これらの生物も、豊太閤も、天から観れば、おなじ地べたにわいた虫なのだ。
川田の文章には何とも言えない寂寥感が満ちています。実際に、彼は淋しかったのでしょう。この数年後、二回り以上年下の歌の弟子で、彼とは旧知の間柄であった大学教授の夫人と恋に落ちます。不倫行為に悩んで自殺未遂を起こすなど、川田の行動はいわゆる“老いらくの恋”事件として、世間を騒がせることになりました。
やがて、夫人の離婚が成立し、川田はその女性と再婚します。京都から神奈川県に移り住み、女性の2人の子を手元に引き取って共に暮らすようになりました。その後は1966年に84歳で亡くなるまで、川田は再婚した妻の献身に支えられて静かな余生を過ごしました。醍醐寺で秀吉の気配を感じていた時には、想像しなかった後半生だったでしょう。川田の墓所は京都市左京区鹿ヶ谷の法然院にあります。
出典:川田順『枯草録』「醍醐の花見」
文・写真=藤岡比左志
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