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偉人たちの見た京都

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偉人たちが綴った日記、随筆、紀行を通してかつての京都の姿に思いを馳せ、時代を超えて人々を惹きつける古都の魅力をお伝えします。
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記事一覧

近代建築の巨匠・谷口吉郎が修学院離宮で体感した「音」の妙趣|偉人たちの見た京都

谷口吉郎は、日本の伝統美を生かした建造物を数多く設計した建築家です。主要な作品には、藤村記念堂、石川県立美術館(現・石川県立伝統産業工芸館)、東京国立博物館東洋館などがあり、日本芸術院会員や文化勲章受章の栄にも浴した、日本の近代建築界を代表する巨匠の一人です。 吉郎は1904(明治37)年に、石川県金沢市片町で、九谷焼の窯元「金陽堂」の長男として生まれました。生家は犀川大橋の近くにあり、店にはたくさんの九谷焼の壺や皿が並べられ、仕事場では職人たちが絵付けの仕事を行なう。吉郎

財界人にして歌人・川田順が醍醐寺で感知した豊臣秀吉の寂寥

京都の東南、山科盆地にある真言宗醍醐派総本山・醍醐寺は、世界文化遺産にも指定された京都を代表する古刹の一つです。創建は平安時代に遡り、1100年以上の歴史を持っています。境内にある国宝の五重塔は951(天暦5)年に完成した、現存する京都府最古の木造建築物。ほかにも多くの国宝や重要文化財を誇る寺院です。 しかし、醍醐寺の名が歴史に強く刻まれるようになったのは、太閤豊臣秀吉による大規模な花見の宴の場所に選ばれたからでしょう。1598(慶長3)年に開かれたいわゆる醍醐の花見がそれ

近代俳句の革新者・山口誓子と冬の午後の二条城

近代俳句史を語る上で山口誓子は欠くことのできない人物です。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」と称され、秋桜子と並んで新興俳句運動に指導的な役割を果たした俳人です。 誓子は1901年に現在の京都市左京区に生まれました。家庭の事情により外祖父(母方の祖父)の下で育ち、小学生の時に京都から東京へ転居。1912年には、樺太日日新聞社長となった外祖父に迎えられ樺太(現在のサハリン)に渡ります。大泊(現在のコルサコフ)にあった中学校に入学。この頃から

小説家・大佛次郎が金閣寺の庭を絶賛した意外な理由|偉人たちの見た京都  

大佛次郎(1897~1973)は大正の末から昭和まで、約50年にわたり創作を続けた小説家・ノンフィクション作家です。15以上ものペンネームを使い分け、時代小説から歴史小説、現代小説、童話、さらにノンフィクション的な作品まで幅広いジャンルで執筆活動を行ない、1964年には文化勲章も受章した国民的作家です。 大佛は横浜市に生まれ、7歳の時に家族と共に東京へ転居します。外交官を志し、府立一中から第一高等学校、東京帝国大学法学部に進学。卒業後は鎌倉で女学校の教師として勤めた後、外務

古代ギリシア哲学の泰斗・田中美知太郎と疏水べりの「哲学の道」|偉人たちの見た京都

「哲学の道」とは、南禅寺や永観堂の北にある若王子神社付近の若王子橋から銀閣寺道の浄土寺橋まで、琵琶湖疏水分線に沿って続く小道のことを指します。 全長は約2㎞。沿道には見事な桜並木が植えられ、桜や紅葉の季節には多くの観光客がこの道に集まります。最近は海外からの観光客もたいへん多く、さまざまな言語が飛び交う京都屈指の景勝地です。1987年には「日本の道百選」にも選ばれました。 いわゆる「哲学の道」は、どこから出た名前なのだろうか。一説によると、西田幾多郎先生*がここを好んで散

琵琶湖疏水を造った男・田邉朔郎が回想する南禅寺界隈の景色|偉人たちの見た京都

第二橋東雨後泥 村園門巷路東西 遇人休問南禅寺 一帯青松道不迷 とは、頼山陽*の「遊南禅寺」と題する有名な詩である。 私が琵琶湖疏水工事を担任しておって毎日のようにこの辺を通行して見た時の景色は、まさにこの詩の通りで、夷川の橋を東へぬけると南禅寺の方へいまの疏水運河のある場所には人家は一軒もなく、東の方に岡崎村の小村と聖護院の森が見えて、今の公会堂のあたりは市中のごみ捨て場、ごみ焼場であった。 思い出を語るのは田邉朔郎。明治20年代に主任技師として、琵琶湖疏水を造った男

流浪の私小説作家・近松秋江が鴨川の東岸から見た夏の夜景|偉人たちの見た京都

京都には、歴史や文化を感じさせる風情のある道や路地が各所にあります。その中でももっとも有名で、観光客にも人気が高いのが先斗町通でしょう。四条大橋の西詰から三条通の南、南大黒橋通に至るまで、鴨川の西岸に沿って南北に500mほど続く細長い通りです。 道幅は狭く、二人同士がすれ違うのはちょっと難しいくらい。でもこの場所は江戸時代から続く花街の一つで、通りの両側の伝統的な建造物にいくつものお茶屋・料亭・レストラン・バー等が軒を連ねる京都随一の繁華街です。 今から100年以上前にな

日本初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹が祇園祭で見つけた“幸福”

湯川秀樹(1907~1981)は、1949(昭和24)年に日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した学者として、教科書にも登場する偉人です。第二次世界大戦後の復興途上という時期の「ノーベル賞受賞」のニュースは、敗戦で自信を失っていた多くの日本国民に誇りと勇気をもたらしました。 湯川は1907(明治40)年に現在の東京都港区六本木で誕生します。1歳の時、父が京都帝国大学教授に就任したため一家は京都市に移住。以後、一時期、阪神方面やアメリカで過ごしていたこともありますが、人

芭蕉ゆかりの嵯峨野落柿舎と自由律俳句の荻原井泉水|偉人たちの見た京都

俳聖・松尾芭蕉といえば、故郷の伊賀上野や江戸、「奥の細道」で旅した東北から北陸地方のイメージの濃い人物ですが、実は京都にも頻繁に訪れていて、ゆかりの地が市内のあちこちに存在しています。 中でも洛西嵯峨野の落柿舎には三度にわたって足を運んでおり、1691(元禄4)年には4月18日から5月4日まで17日間も逗留。この時の記録を『嵯峨日記』として著わしています。 その芭蕉の訪問から230年あまりの後、1924(大正13)年6月25日。一人の俳人が落柿舎を訪れました。彼の名は

名作『銀の匙』の作家・中勘助と洛北詩仙堂の花の庭|偉人たちの見た京都

中勘助(1885~1965)は、大正から昭和にかけて活躍した小説家・詩人・随筆家です。20代で発表した自伝的小説『銀の匙』が高く評価を受け、一躍世間の注目を集めましたが、居を転々として放浪生活を送るなど、文壇とは一線を画した「孤高の作家」とも評されました。 勘助は1885(明治18)年に東京に生まれ、現在の文京区小日向で育ちます。生まれつき虚弱体質で、頭痛に悩まされることの多い子どもだった彼は、生母が病弱だったこともあり、幼少期は同居していた母方の伯母に育てられます。この

古書からひもとく戦前の京都観光(旅の図書館)|偉人たちの見た京都(番外編)

青山一丁目の駅から歩いて5分ほど、青山通りから一本入った通り沿いにある「旅の図書館」は、観光学を学ぶ学生や研究者などを中心に、旅行のプランを考える人なども訪れます。ずらりと並ぶ年代物の地図に驚いていると、「新婚旅行で訪れた時の旅先の様子について知りたいという方がいらっしゃるので」とは副館長の石田心さん。かつての旅の思い出を辿りにくる方もいらっしゃるそうです。 貴重な古書が並ぶ古書ギャラリーでは、企画展「古書からひもとく戦前の京都観光」が行われていました。企画展を担当した主任

夏目漱石が下鴨・糺(ただす)の森で過ごした淋しく寒い春の夜|偉人たちの見た京都

1907(明治40)年3月28日午後7時半過ぎ。文豪・夏目漱石(1867~1916)は東海道線の列車から京都駅に降り立ちました。時に漱石、40歳。明治25年に帝国大学学生時代に訪れて以来15年ぶり。人生で2度目の京都来訪です。 すでに『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』を発表し、人気作家としての地位を確立しつつあった漱石は、この年の2月に一切の教職を辞職。朝日新聞社に入社するまさに直前の京都行きで、しばしの休養と京都にいる旧友を訪ねるための旅でした。 朝の8時に東京駅を発

能楽研究者・野上豊一郎が桂離宮に感じた“芸術が最良となる瞬間”|偉人たちの見た京都

桂離宮といえば、京都のみならず、日本を代表する文化財。庭園と日本建築が見事に融合した離宮として、世界的にもその名が轟いています。創設は江戸時代の17世紀。正親町天皇の皇孫にあたる八条宮智仁親王とその子・智忠親王の2代にわたって、建物と庭園の造営・整備が進められました。 所在地は京都市西京区桂。もともとこの辺りは古くから貴族の別荘地として知られた場所で、平安時代には藤原道長の別荘(当時は「別業」と言った)が営まれていたといいます。江戸期を通じて皇族の別荘などに使われていまし

清水寺の舞台から眺めた夕景と新劇運動の先駆者・島村抱月|偉人たちの見た京都

1918(大正7)年に発生し、2年間にわたって全世界を席巻、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染したといわれるスペイン風邪。現在のコロナ禍と同様、日本国内でも大流行し、最終的に40万人以上の人々が亡くなったとされています。 このスペイン風邪への罹患が原因で、同年11月にわずか47歳で急逝したのが島村抱月です。抱月は文芸評論家、美学者、英文学者、小説家、劇作家、演出家、そして初期新劇運動の指導者として活躍した人物で、女優・松井須磨子との恋愛事件でもよく知られています。