流浪の私小説作家・近松秋江が鴨川の東岸から見た夏の夜景|偉人たちの見た京都
京都には、歴史や文化を感じさせる風情のある道や路地が各所にあります。その中でももっとも有名で、観光客にも人気が高いのが先斗町通でしょう。四条大橋の西詰から三条通の南、南大黒橋通に至るまで、鴨川の西岸に沿って南北に500mほど続く細長い通りです。
道幅は狭く、二人同士がすれ違うのはちょっと難しいくらい。でもこの場所は江戸時代から続く花街の一つで、通りの両側の伝統的な建造物にいくつものお茶屋・料亭・レストラン・バー等が軒を連ねる京都随一の繁華街です。
今から100年以上前になる大正時代の中頃、一人の作家が鴨川の対岸からこの先斗町を眺めていました。作家の名前は近松秋江。現在では作品を読む人も少なくなりましたが、明治末から大正にかけて活躍した自然主義派の私小説作家です。
どういう巡り合わせでか、私は春から夏にかけてを、よく、先斗町の妓楼を真正面に眺める鴨涯*の東岸、疎水の流れを座敷の前にした縄手の通りで過ごすことになる。四五年前も四五ヶ月をそこで過ごした。今年も二月から夏の初めまで四五ヶ月を、宿は違うが、やっぱり縄手通の、疎水を前にした座敷で過ごした。
私の座敷から心持ち西北に振った愛宕山のちょうど頂のところに、永い初夏の夕陽が紅提燈のような色をして沈んでしまう頃になると、涼しい川風が鴨川の河原や、 深碧をたたえて淀み流れる疎水の水の面に湧いてきて、芝居の背景の通りの対岸の先斗町の妓楼に、ぽつぽつと明かりが点く。
秋江は1876(明治9)年に現在の岡山県和気町に生まれます。小説家を志して上京。東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業後、職を転々としながら創作や評論活動を行ない、自己の奔放な愛欲生活を描くいわゆる情痴小説で大正期の文壇に地位を確立します。秋江は1915(大正4)年から1920(大正9)年頃まで、頻繁に京都を訪れました。理由は、後述するように、馴染みとなった祇園の芸妓に会うためでした。
縄手通とは、祇園を南北に走る大和大路通のうち、三条通から四条通までの区間の通称。また、秋江が「疎水」と呼んでいるのは、祇園を北東から南西に流れる白川のことです(白川の水は琵琶湖疎水の鴨東運河から分水され、鴨川に注いでいます)。秋江が暮らしていた座敷は、白川に架かる現在の大和橋付近にあったと推測されます。
いったい縄手の通りは夏は暑くて不可ない処にきまっているのである。私も五月の中ごろまでに他へ移ろうと思っていてとうとう六月の初めまでいたが、午後三時頃になると、窓のすぐ下を流れていく疎水の碧流にただようていた日光がだんだん這い上がってきて、やがて太陽が西に廻ると、とても耐えられない、厭な射光を畳の上まで深く投げてきて、四畳半の離室は身の置き場もないまでに暑い日光で部屋中が一杯になる。
私はそのためにヅキンヅキン頭痛のするのを堪えてごろごろ身を横にして悶えていると、それでも六時半、七時頃になって日没になる。
そうなると、昼間とは、すっかり違った極楽世界がそこに開けてくるのである。
夏の京都は猛暑で知られていますが、初夏の頃でさえ、昼間は耐えられないほどの暑さになりました。しかし、日が沈むと一転して別の世界がそこに出現する、と秋江は言うのです。
その疎水の碧流と加茂の川原との間の土手の上を三条大橋の東詰を起点として京阪電車が間断なく駛走しているのは、古い京都の街としては風致を破壊するといって非難するものもあったが、時代の必要ということの前には趣味も風致もたいてい屈従してしまわねばならぬ。今ではもうそんなことをいっていても仕方がない。
その代わりに電車の走っている堤は、ことに三条と四条との間は、電車会社と市との方からずいぶん注意して電車という文明の利器の殺風景を補うように、線路の芝生を常に手入れよく保護して躑躅を植えたり、水に沿うた岸のうえに柳や桜の並木を植えたりしている。(略)
京阪電車が五条(現・清水五条)から三条まで延伸開業したのは1915(大正4)年のこと。秋江が京都に滞在するようになったのは、まさに電車が鴨川の堤を走り出した頃です。京阪本線は1987(昭和62)年に地下化され、路線跡は川端通となりました。三条と四条周辺の鴨川べりの桜や柳の木々の間を電車が走っていた光景は、長い間、京都市民に親しまれていました。今でも川端通と鴨川の土手との間にはその名残があります。
蒼茫とした暮靄が加茂の磧を罩める頃になると、午後からの日光に苦しめられて呻吟していた私の気分も、それとともに蘇生してくる。
またその頃になると昼間一時何ゆえかいくらか減少していた疎水の水も再び元の通りに水嵩を増して、宵闇の底を物凄いまでに淀み流れていく。そこから冷たい夜風が水の臭いを吹き上げてくる。
そして青黒いまでに繁った電車堤の桜柳の葉越しに向岸の先斗町の妓楼には、もうすっかり軒並みに燈が入って、開放した座敷に晩涼とともに酒食を楽しむ人間の声が手に取るごとく聞こえてくる。
そして彼らの酒興ようやくたけなわになりて、皆一様に起ち上がって座敷踊りの乱痴気騒ぎのはじまる頃になると河原に架け出した座敷の軒下を「アイスクリーム! 高等アイスクリーム!!」と、声高に呼んで歩くアイスクリーム売りの呼び声が聞こえる。それも辻占売り*の声とともに廓の夏の夜の情景の一つである。
日が暮れて鴨川の河原に夕靄が立ちこめるようになると、夜風が水のにおいを運び、堤の木々の間から向岸にある先斗町のお茶屋や料亭の燈火が見えてきます。鴨川に面した所では、河原に床と呼ばれる座敷を架け出して、人々が涼風を浴びながら宴を楽しんでいます。高等アイスクリームとは、さしずめ高級とか上等という意味でしょう。物売りの声も風に乗って伝わってきます。秋江はそれをどのような想いで見ていたのでしょうか。
実は秋江は本質的には歴史や政治に関心があり、男女問題や私生活を小説の題材にするつもりはありませんでした。ところが、下宿屋を営んでいた内縁の妻が突如、出奔。秋江はその行方を追って、全国の繁華街を尋ね歩き、その探索の過程を1910年に小説『別れたる妻に送る手紙』として発表。それが話題となって、世に出ることになったのです。
その後も、妻の探索の途上で出会った祇園の芸妓に惚れ込み、何年にもわたって京都に通って身請けまで考えたところで彼女に裏切られた体験を小説(『黒髪』)にするなど、秋江はまさに破滅型私小説の代表的な作家として、知られる存在になりました。不実な女に翻弄される男の狂態を赤裸々に描いた『黒髪』は、情痴小説の最高傑作として同時代の作家から高く評価を受けています。
秋江は46歳で結婚し、二人の娘にも恵まれますが、晩年は眼疾に苦しみ、両眼とも失明するなどで文筆の世界から離れ、1944年に老衰により67歳で亡くなりました。筆名の近松秋江は、秋の絵を好むことから秋江、名字は当初は本名の徳田でしたが徳田秋声との紛れを避け、近松門左衛門にあやかり近松にしたといわれています。
出典:近松秋江『秋江随筆』「京の夏」
文・写真=藤岡比左志
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