元祖ミニマリストも捨てられなかった“執着心”とは|『超約版 方丈記』(6)
魚は、水に飽かず
鳥は、林を願う
~三界は、ただ心ひとつなり~
仏教の教えに「三界唯一心」というのがある。
仏教では、衆生が生死を繰り返しながら、ぐるぐるとめぐっている世界を「三界」といっている。
下から上へ欲界・色界・無色界の順である。
三つに分かれているので、別々の世界のように感じるかもしれないが、ただ一つの心でつながっており、心の持ちよう一つで、この世の中は、いかようにもなるのだ。
「三界唯一心」とは、そういう意味である。
心が穏やかで安定していなければ、象馬とか七珍と呼ばれる財宝がどんなにあふれ返っていても、何の役にも立たないし、これ以上はあり得ないと思えるほど、贅のかぎりを尽くした宮殿とか、見る人を圧倒せずにはおかない楼閣でさえも、何の意味も持たなくなってくるのだ。
今の私が暮らす、ひっそりとした寂しい住まいは、たった一間しかない小さな庵だが、心底から深くて強い愛着を感じている。
もし何かのついでに都に出るようなときには、私も人の子、乞食にでもなってしまったかのような風体が人目に触れるのを恥かしいと思ってしまう。
だが、またここへ戻ってくれば、そのようないじけた気持ちは、きれいさっぱりとなくなる。
そして、人々が世俗の欲にとらわれて、あくせくと生き惑っている姿を思い浮かべて、滑稽で憐れだと感じるようになるのである。
もしも、私がいっていることがおかしいと疑ってかかる者がいるなら、魚と鳥を観察するがよい。
魚は水に飽きることがないが、その心は魚でなければわからない。
鳥は林を好むが、その心は鳥でなければわからない。
私のように閑居することで享受できる興趣も、魚や鳥のケースとまったく同じなのである。
住んでもみない者に、どうして私の心がわかろう。
一度も住んだことがない者が、この庵のよさを理解することなど、到底できるはずがない。私はそう思っている。
二律背反する姿と心
大敵は「執着心」だ
~姿は聖人にて、心は濁りに染めり~
人生を空の月に喩えるなら、余命いくばくかの私は、山の端近くに浮かんだ月といったところか。
ほどなく私は、死者が悪行の報いとして行くという三途の闇の世界へと向かおうとしているのである。火熱の責め苦を受ける「火途」、刀剣の責め苦を受ける「刀途」、互いにむさぼり食い合う「血途」の三悪道へと堕ちていくのだ。
そんな私なのに、この期に及んで、いったい何を述べようというのか。
仏が説かれた教えは、「何事につけ、執着心を抱くな」ということだ。
そうであれば、私が草庵を愛したり、閑寂にこだわったりするのは、差しさわりがあることになる。
そう考えると、何かの役に立ちもしない不要な楽しみをどう述べ、時間をどう過ごしたらよいのか迷ってしまう。
明け方のしんと静まり返った庵にいて、その種の妄念が頭の隅から消えないので、私は、こう自問自答した。
しかし、わが心が、わが問いに答えることはなく、私はただ口の奥の方で、舌の力を借りて、もぐもぐと「南無阿弥陀仏」を二、三度、唱えただけだった。
時に建暦二(1212)年、三月末の頃、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これを記す。
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<本書の目次>
第一章 天災と人災
第二章 方丈の庵に住む
第三章 いかに生きるべきか
「方丈記」原文(訳者校訂)
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