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“やま” 昔、山は生きていた|中西進『日本人の忘れもの』

8月11日は「山の日」です。
万葉集研究の第一人者である中西進さんによる2001年刊行のロングセラー日本人の忘れものより、“山”と日本人の関係について深く考察したエッセイをお届けします。

日本人の忘れもの
中西進 著(ウェッジ刊)

むかし、山は生きていた

 日本は大半が山におおわれている。関東平野、濃尾平野といっても、その大きさは海外諸国の平野にはくらべようもない。

 だから日本人はむかしから山と深くつき合ってきたはずなのだが、さてつき合いを忘れた歴史は古い。

 第一、日本三景といって日本を代表する風景があるが、それは松島という湾内に島々が浮かぶ風景と、天の橋立という海上に長くのびた岬、そして厳島という海中に鳥居をもつ神社である。

 みんな海の風景であって、山など完全に無視されている。

 一方で日本アルプスといわれる山々があって、そのけわしさ、山岳としての美しさがとり上げられているが、これは明治の一時期、風景論、自然論が盛んになって、日本にだって美しい山岳地帯があると、むしろヨーロッパに教えられてクローズアップしてきたものだ。教えられてあらためて見直すまで、日本人はとんと山の美しさを忘れていた。

 さすが富士山だけは例外で、江戸にだって至るところに富士見坂や富士見町があるほどにもてはやされたが、そのほかの名山は、知る人ぞ知るといったていどになり、そればかりか各地の名山は近江富士とか津軽富士とかと、富士に身売りをする始末となった。

 しかし本来日本人は、もっともっと身近に山と接し、山と生活をともにしていたはずである。

 いまはもう俳句でしかいわなくなったが、冬の山を「山が眠る」といった。そういわれると、いかにも冬山は目ざましい新緑に萌えるのでもなく、きらびやかな紅葉にいろどられるわけでもなく、ひそかにじっと眠っているように見える。

 その山が春ともなると、「山は笑う」と表現された。山の表情がやわらぎ、あちこちの木々に変化が生まれ、いかにも笑うような豊かな顔色を見せる。

 山はそのまま人間のように、生きていたのである。

 たねさんとうの有名な句に「分け入っても 分け入っても 青い山」というものがある。この句の中でも、山は生き物の姿を感じさせる。夏のすがすがしい姿だ。

 しかも「青山」といえば墓地の意味もある。山の中のいたるところ、どこもが旅人の永遠の憩いを引きうけてくれる歓迎ぶりを示すらしい。

 たのもしい山だ。そう思うと「仁山」ということばを思い出す。知恵者は水を愛し、仁の心(慈しみの心)を持つ者は山を愛するという中国の考えから、知水仁山ということばができた。

 たしかに知恵は水のように自由に働くものだろう。一方何物にも愛情を寄せ、ふところ深くいつくしむ人物は、山のように不動の大人物でなければならないだろう。

 山とは、そのように愛情豊かな大人物の姿を重ねられるものでもあった。

 こうなると、山は人間そのものではないか。だから乱暴な要求をする歌人もいた。山の向こうで自分を見送る恋人がいると、彼女をいつまでも見たい。だから「山よ ちょっとそこをどいてくれ」と求めたのは『万葉集』の柿本かきのもとの人麻呂ひとまろという歌人だった。

 同じように山に向けてあれこれ要求するケースが民謡にたくさんある。

 山はそれほどに、自由自在な生き物だったのに、現代人は山を生き物だとは、だれも思っていない。生きている山は、もう土俵にしかいなくなった、というわけでもあるまい。

現代人は山と対話をしなくなった

 会津の飯盛山は、明治維新の戦争の時、少年隊の白虎隊がここで自刃したところとして、有名である。

 ところでこの飯盛山という名前は、御飯を盛ったような形だから、そう呼ばれた。いかにも庶民的でおもしろい。

 その庶民性がもっとすすむと、おむすび山と呼ばれる。なるほど、御飯を盛ることとおむすびとは充実感が共通するのかと納得してしまう。大衆食堂の「大盛り」という語感と、ぎゅうと握った濃密さは、お腹のすいた人をよろこばせただろう。

 大むかしはおかゆがふつうだった。その上、米も少なかった。ひえやあわが常食。その人たちにとっての飯盛りやおむすびは、こたえられなかったはずだ。

 しかし、このお腹向きの名前は本来のものではない。そもそも、日本人の間では円錐形の山が信仰された。無駄がない、緊張感のある形が尊ばれたのだろう。その尊重のなごりが食欲の尊重にすり代わった次第である。

 この円錐形の山は神さまが空から降りていらっしゃる山として「かんなび山」とよばれた。神さまがいらっしゃるほとりの山、という意味である。

 奈良県の三輪山がもっとも代表的な山だ。

 琵琶湖のほとりの三上山も、頂上が少しわかれているからその名があるが、遠くから見ると、ほとんど目立たない。湖上をとおして見る姿は、みごとに円錐形である。

三上山(滋賀県)

 あの巨大な富士山も、じつは「神なび」型の山である。伊勢から富士山が見えることは、知る人ぞ知る神秘の光景だが、その富士山は近ぢかと仰ぐ姿とはまったく違って、美しく端麗な円錐形である。

 富士山は日本の歴史の中で、早ばやと日本を代表する山となる。するといままでの「神なび」型の山はおしなべて「~富士」とよばれるようになった。三上山も近江富士とよばれ、羊蹄山まで蝦夷えぞ富士とよばれる仕儀となった。

羊蹄山(北海道)

 しかしそうよばれるものが、地方地方の名山であるように、昔は円錐形の山が神さまの山として尊重されていたのである。

 いったいに山の姿を美しいと思うことは、いまの都会生活ではほとんどないだろう。

 しかしふと目をとめてみると、美しい山がある。私が住む土地の近くに亀山がある。これを嵐山のあたりから見ると、じつに美しい。カメ山は鴨山とも同じらしく、カモ山とよばれる山もおおむね美しい。カメもカモも、カミといっしょのことばなのであろう。要するに神さま扱いの円錐山である。

 すでに私は山が生きているといった。神さまもふくめて山が人間同様生きているなら、山の姿が神々こうごうしいとか美しいとかと考えるのも当然だろう。円錐山が容姿端麗な美人山と思われてもおかしくない。

 逆に不美人山もあるだろう。群馬県の人には申しわけないが、妙義山はむかしでいうと美人山ではない。

 奈良県に大和三山があって、お互いに恋争いをしたという話は有名である。

 この主役は天から落ちてきたとされる聖山の香具かぐ山。この平らな山は女山以外に考えられない。この女山に対して耳成みみなし山は火山だけあって典型的な円錐形の男山である。もう一人の男性はうね山。これこそ右肩をいからせ、男らしい男山。香具山が美形の耳成を捨てて、体育会系の畝傍に恋をしたという話が大和三山の伝説である。

香具山(奈良県)
耳成山(奈良県)
畝傍山(奈良県)

 じつは三山の恋愛伝説はアメリカのネイティブの人たちの中にもある。ストーリーまでそっくりで驚くばかりだが、要するに人間は普遍的に、むかしは山に親しく接し、山の恋愛する姿まで想像したりした、ということだ。

 さらには、男たるもの美形ばかりでは女性にもてないという人生観まで、山物語につけ加えていたのだから、山との対話は濃密だった。

 昨今山など見向きもしない人、いや見たくても山なんかまわりにないという人が多いのも残念なことだ。

峠をなくした日本人

 日本語ではボーダーのことを「さかい」(境)という。一方「さか」(坂)というとスロープのことである。

 ということは日本人のふつうの生活では、自分の地域と他の地域とが山で区切られていたことを意味する。日本には野原もあり海岸もあるにもかかわらず、山と山とにさえぎられた地域地域に人びとが住むことが多かったのである。

 古いことばで海の極限を示すものに「海坂うなさか」ということばがある。海のはてがスロープでは、水がこぼれて困ると思うのに、境界はどこでも「さか」だったのである。

 だから別世界からやって来るものは山を越えてきた。私の大好きなわらべ歌の一つに「正月さん」という歌がある。次のものは富山県のもので、地方地方で地名を入れかえて歌われるのが、こうした種類の歌の特徴である。

正月さァん 正月さん
何処までごォざった
くるくるやアましイたまでごォざった
お土産なァんだァ
かや槝栗かちぐり 蜜柑に昆布
繭玉まいだまふってごォざった

町田嘉章・浅野健二編「わらべうた」

 お正月が別世界から山を越えて、今や山の下まで来たと考えたのである。有名な「春が来た」という歌も、まず山に来、里に来、野にも来るのだから、春さんの旅程も山越えのものであったらしい。

 だから反対に、山の向こうのみならず山そのものも別世界で、山中に山岳仏教とよばれる別世界が作られたり、山中が修験者の道場となったりする。

 死後の世界も山の中に考えられた。近代の小説では深沢七郎の「楢山ならやま節考ぶしこう」に描かれたようなうばて伝説──老人を山の中に捨てる話は、山の中を別世界として死後の地と考えたなごりである。

 いまでもなお、死霊が集まる恐山のような信仰もある。

 しかしいまは、山の向こう側とこちら側は鉄道のおかげでどんどん往き来できるようになり、トンネルでいっきょに交通することが可能になった。

 先年亡くなった中上健次は熊野出身の作家だが、彼は紀伊半島が鉄道によって一周できるようになったことの驚きを描いている。それまでは隣村へいくのに、船に乗って海へ出て、岬をまわっていったものだという。

 ところがそんな迂回をしなくてもよくなった。トンネルで一直線にいけるから、もう「さか」は「さかい」ではなくなった。ましてや船でまわるということも不必要になった。

 1937年に川端康成が「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と書いたのは、峠越えを手放す歴史の上で、象徴的なことだったというべきだろう。

 峠という字も日本で作った字である。こんな字が作られるのも、日本の風土を暗示するではないか。

 しかも「とうげ」という日本ことばは、峠の神さまにお供えを手向たむけることだという説もある。

 峠には旅人のお腹をすかせる神さまがいると考えられた。「ひだる神」という。だから峠の茶屋があった。

 しかし今や、峠の茶屋もなくなった。神さまも手向けが少なくなった。

 結局のところ山越えがなくなったことで、日本中が一面に平板となった。

 地図を見ると褐色や緑色に色わけされて、日本列島はバラエティに富んでいるようだけれども、生活する上ではでこぼこもなく、のっぺらぼうに広がっているにすぎなくなってしまった。

 地表は凹凸があり、道は曲がりくねっているのがふつうなのだ。地表が平らになり、道が直線になった現代人の生活ラインはすばらしい文明の結果だが、その恩恵に感謝しながら、一方では大地の凹凸や曲折もいつも心に持っていたいものである。

文=中西 進

中西 進(なかにし・すすむ)
一般社団法人日本学基金理事長。文学博士、文化功労者。平成25年度文化勲章受章。日本文化、精神史の研究・評論活動で知られる。日本学士院賞、菊池寛賞、大佛次郎賞、読売文学賞、和辻哲郎文化賞ほか受賞多数。著書に『文学の胎盤――中西進がさぐる名作小説42の原風景』、『「旅ことば」の旅』、『中西進と歩く万葉の大和路』、『万葉を旅する』、『中西進と読む「東海道中膝栗毛」』『国家を築いたしなやかな日本知』、『日本人意志の力 改訂版』、『情に生きる日本人 Tender Japan』(以上ウェッジ)など。

出典:日本人の忘れもの 2(ウェッジ文庫)

≪目次≫
第1章 営み
わたし  日本人らしい「私」が誤解されている
つとめ  義務や義理にしばられてしまった日本人
こども  自然な命の力を育てたい
もろさ  自然な人間主義を忘れた現代文明
あきない 立ち戻りたい商業の原点
まこと  改革はウソをつかないことから始まる
まごころ 人間、真心が一番である

第2章 自然
みず   水の力も美しさも忘れた現代人
あめ   雨は何を語りかけてきたか
かぜ   風かぜは風ふうとして尊重した日本人
とり   鳥が都会の生活から消えた
おおかみ 「文明」が埋葬した記憶を呼び戻したい
やま   山を忘れて平板になった現代人の生活
はな   日本人はナゼ花見をするか

第3章 生活
いける  花の本願を聞こう
かおり  人間、いいものを嗅ぎわけたい
おちゃ  茶道の中で忘れられた対話の精神
みる   識字率のかげに忘れられたビジュアル文化
たべもの もう一度、「ひらけ、ごまゴマ」
たび   つまみ食い観光の現代旅行事情

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