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京都の水盆で「台湾素食」のゆうべ|へうへうとして水を味ふ日記

台湾と日本を行ったり来たりしている文筆家・栖来すみきひかりさんが、日本や台湾のさまざまな「水風景」を紹介する紀行エッセー。海、湖、河川、湧水に温泉から暗渠あんきょまで。今回は、栖来さんが学生時代から10年ほどを過ごした京都と“水”のお話です。

連載「へうへうとして水を味ふ日記

「京都いう街はねえ、水のうえに浮かんでるんですわ」

昔、京都のとあるバーのマスターが台北に遊びに来て、いっしょに食事をしているとき、こういった。地獄の釜のふたがあいたような台北の夏の暑さ、そして骨にしみいるような冬の寒さが、京都を思いださせると話したときに返ってきた言葉だ。

京都では、大量の地下水が水蒸気となって地表に漏れでて、あの独特の暑さと寒さが生まれているという。帰って調べてみると、なるほど、京都の地下には大きな大きな水たまりがあって、その水量は211億トン、おとなり滋賀県の琵琶湖にも匹敵するといい、「京都水盆」と呼ばれている。

水盆は、京都の文化と密接に関係している。お豆腐に伏見の酒、京友禅。表千家や裏千家、武者小路千家で点てられるお茶。下鴨神社や京都御所、神泉苑など京都を代表する観光スポットも、水盆の湧水をもつ場所に建てられた。

京都に住んでいた10年のあいだの一時期、働いていた京料理「魚棚」さんで、汲み上げて使っていた地下水を思い出す。その日の仕事がそろそろ終わりそうなころ、ごくごくと身体にながしこむひんやりした一杯のコップ水は、えも言われぬうまさだった。同じ水でひいた羅臼昆布の薫るまかないのお汁も楽しみだった。烏丸五条近く、西洞院通油小路のいえの近所には、染物の職人さんの作業場がいくつもあった。京都水盆の水はそのまま、京都の生活者の体液である。

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水盆のほかにもうひとつ、京都に欠かせない水がある。琵琶湖から引かれた上水道だ。じつはこの琵琶湖疎水、台湾との縁もある。西郷隆盛と愛加那の長男で、京都市長時代に「第二琵琶湖疎水」をつくり蹴上けあげに上水道設備を整えた西郷菊次郎は、京都のまえには基隆支庁長と台湾東部の宜蘭ぎらん長官を歴任し、とくに宜蘭では、たびたび氾濫をした「宜蘭河」の堤防工事という大仕事を手掛けた。暴れ川と呼ばれた宜蘭河はその後洪水することもなく、住人は「西郷堤防」と呼んでそれを讃え、記念碑が今も移設されて残っている。台湾でも京都でも、水との付き合い方をとても重要に考えていた人だったのだ。

そんなことを思い出しながら京都・岡崎の琵琶湖疎水ぞいを歩く。別荘地でもある岡崎では、それぞれの邸宅の庭園に琵琶湖疎水の水が引き入れられている。そんな、疎水のほとりにある友人のスタジオを訪ねた。

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友人の名は松永智美さん。ジュエリーデザイナーであり、タルトタタンで知られる岡崎の名店「ラ・ヴァチュール」の二代目、そして台湾スタイルの精進料理「素食スーシー」を日本に伝道する料理研究家でもある。

マンションの上階にあるスタジオに足を踏み入れると、窓いっぱいに東山の稜線がせまる。すぐ手前には武徳殿の屋根がみえ、その奥には平安神宮。こうした立地のおかげで、この部屋からの眺めはいつまでも他の建築物に遮断される心配はないそうだ。なんて贅沢な景色だろう。

しつらえの美しいキッチンには「素食」に使われる乾物類が、漆の木の盆のうえに並んでいる。乾物・漢方薬の問屋がひしめく迪化街に行けば、台北でお馴染みの食材も少なくないが、ジュエリーデザイナーでもある松永さんの手にかかると、美しく輝く鉱石の標本箱にみえる。それぞれを取り出し、イオン化した京都の水道水(だから、これは琵琶湖疎水の水だ)で戻したのがこの日のディナーの食材である。だいじにだいじに、良い水と手間ひまをかけて戻したキノコたち。松永さんはこの作業を「キノコのお世話をする」と呼ぶ。

台湾には、人口の約一割(200万人)のベジタリアンがいるといわれる。ヴィーガンといった言葉が最近ようやく定着してきた日本からすれば、驚くべき数字だ。街のいたるところに「素食」(ベジタリアン)と書いた看板が見られるし、レストランにも必ずといっていいほどベジ対応メニューがある。スーパーにいっても昔から「べジミート」(大豆肉)が売られている。

また台湾の「素食」には、動物性食材を使わないほか独特のルールがある。香りの強い「五葷ごくん(=ネギ、ニラ、ニンニク、ラッキョウ、タマネギ)を使わないというものだ。これは、台湾で長いあいだ信仰として広く深く根付いてきた「斎教さいきょう」の影響にさかのぼる。「斎教」とは、三教(仏教・儒教・道教)が融合し中国明代に成立したもので、信徒は在家でベジタリアンであることが求められた。斎教はその後さまざまな流派に分化・同化していったが、こうした信仰のなかで、植物性食材を動物性食材に見立てる「もどき料理」は進化を遂げてきた。

松永智美さんも、実は台湾と深い縁を持っている。松永さんのお母さん、松永ユリさんは戦前、日本統治下の台湾新竹県で小学校の先生をしていたのだ。終戦後、京都へと引き揚げたユリさんは、1959年に祇園で、喫茶「紅屋べにや」をはじめた。その後、喫茶は画廊「べに」に転身、岡崎に場所を移して「ギャラリー紅」とフランス料理店「LA VOITUREラ・ヴァチュール」が始まった。そして、名物「タルトタタン」のレシピはユリさんから智美さん、そして娘で三代目の麻耶さんに引き継がれている。

智美さんのセンスは料理と芸術を愛したお母さん譲りだが、食いしん坊だったユリさんの家庭料理には、引き揚げ後も台湾料理のエッセンスが息づいており、智美さんにとって台湾の食は身近なものだったという。その後、縁あって「台湾素食」の第一人者である洪銀龍ホンインロンさんに学び、京都の「素食の会」という各地でのイベントや雑誌・メディアで、この料理を広めるようになった。

手前は松永智美さん、
奥は京都を拠点に活動する盆栽研究家の川﨑仁美さん

智美さんの素食の特徴はなにかと問われれば、台湾型の「もどき料理」と日本の「懐石料理」のハイブリッドという点だろう。まずは今晩の鍵となる、昆布とキノコで出した「黄金スープ」をガラスのお猪口でいただいて味蕾をひらく。このスープがとても重要で、繊細な素食のなかの旨味を拾えるよう、味覚を敏感にしてくれるそうだ。

「これなんやと思う?あててみぃ」

智美さんが、いたずらっぽく笑う。

前菜の蓋物を開けると、こんもりとした透明なイカの短冊のうえにウニのソースが掛かっている。いや、これは「素食」なのだから、イカでありウニであるわけがない。でも見た目はそれにしか見えない。

食べてみると、キュキュッとした歯触りはまさにイカそのもの。まずこれが「ナタデココ」であることに驚く。しかし、ウニのソースはいつまで味わってもわからない。植物性のはずなのにどこか磯の薫りがする。うーん、うーんと悩むわたしを見つめる智美さんの表情は、最高に楽しそう。

「これな、ドライマンゴーの甘味を抜いてるねん」

「えっ」

種明かしをした後、呆然とするわたしの顔を見る智美さんの、また嬉しそうなこと。

次は、どう見ても「生レバー」である。口にいれると、ふんわりとゴマ油の薫り。そして限りなく本物の「生レバー」に近い歯ざわりに味。これがあれば、もう生レバーを食べる必要はないとさえ思う。これは「アミタケ」というキノコで出来ているのだが、この感触を毎回のように再現できるのがすごい。まさに、長年の研究と丁寧な「お世話」だけが生み出せる食感だ。

それから、アワビの煮物に、うなぎの七輪焼き、東坡肉、焼つくねに中華おこわ。器や盛り付けはコンテンポラリーな京懐石のよう、そして料理ジャンルも、和食から韓国風、中華風とさまざまな一皿が、智美さんの華奢な身体から次々と繰りだされる。

それぞれの料理を口にした途端、前回その食材や料理を食べたときの記憶がよみがえる。そういう意味で、智美さんの「素食」は紛れもなく贅沢な「大人」の遊びである。もしアワビを食べたことがなければ、「アワビもどき」の美味しさも妙味もわからないだろう。素食は、その人がこれまでどんな食体験をしてきたかを裸にする。そこには千利休が発明した「見立て」という概念も含まれる。茶室に生けられた一輪が、庭いっぱいに咲き誇る朝顔を想像させたように、「素食」がもつ味の余白は、頭と身体の記憶によって完成されるのだ。

外は暗く、東山の黒々とした山影をみながら思う。京都の街の凄みというのは、なにも清水寺や金閣寺といった有名仏閣などの観光スポットにあるのではない。古来より様々な文化が流れ込み、地下水のように溶けこんで洗練を重ねてきた、そんな京都水盆のうえの生活者の体液にこそ宿る。

智美さんは、こういって笑った。

「もどき料理を作るにはね、ちょっと“イケズ”なほうが向いてんねん(笑)」

文・写真・イラスト=栖来ひかり

栖来ひかり
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)、『日台万華鏡』(2023年、書肆侃侃房)、『台湾りずむ』(2023年、西日本出版社)。

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