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へうへうとして水を味ふ日記

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台湾と日本を行ったり来たりしている文筆家・栖来ひかりさんが、日本や台湾のさまざまな「水風景」を紹介する紀行エッセー。海、湖、河川、湧水に温泉から暗渠まで。
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記事一覧

ミャンマー街のメロディー|へうへうとして水を味ふ日記

「ひかりさん、来週、あのA川さんのご案内でミャンマー街に行きませんか?」 と、先日、馬場克樹さんが誘ってくださった。馬場さんは日本の外交官として台湾に赴任した際、台湾に惚れ込んでしまい退職して台湾に移住。現在は台湾でシンガーソングライターや俳優、ラジオパーソナリティとして大活躍する、皆の兄貴分的な頼れる存在である。そして「あのA川さん」とは、台湾の大学に留学中の日本人院生で、毎週のようにミャンマー街に通い詰めている「ミャンマー街の達人」として知られるブロガーさんだ。 ミャ

どちらも山で前は酒屋で──美祢市別府弁天地|へうへうとして水を味ふ日記

外にでれば読んで字のごとく茹るような暑さ。台北の、綿毛のようにまとわりつく湿気が毛穴を塞いでからだを重くし、歩くことさえ億劫だ。そんなとき、頭のなかに浮かんでくる日本の水風景がある。冷気のカーテンが幾重にも張りめぐらされたあの場所。ああ今すぐワープしたい、もぐりこみたい──別府弁天池へ。 日本名水百選にも選ばれたその水質は、ミネラルを豊富にふくんで透明度は高く、日差しの角度によってコバルトブルーやエメラルドグリーンに輝く。それは青い照明の下、ソーダ水に色とりどりの透明なゼリ

猫と炭鉱と水の記憶~台湾新北市「猴硐礦工文史館」|へうへうとして水を味ふ日記

前にもここの駅で降りた。そのときは「猫村」がお目当てだった。 台湾北部の平溪線は、ランタンあげや十分瀑布などが日本でもよく知られる炭鉱開発のための元・産業鉄道である。基隆川の上流に沿って走る平溪線のまどからは、日本の鉄道ファンが「台湾の保津峡」とも呼ぶ渓谷美がひろがり、炭鉱跡に足を運ぶ廃墟ファンもすくなくない。 その駅のひとつ「猴硐」では、いつの間にか駅構内や住宅地にやたらと猫が増え、それをお世話する団体もできて各国の猫好きが訪れるようになり、「猫村」という人気の観光スポ

くるまえび博士の〈地球〉~山口県山口市秋穂|へうへうとして水を味ふ日記

クルマエビの交尾についてご存じだろうか。 夜行性のクルマエビは、昼間は砂にもぐっていて、暗くなると砂のお布団から這いでてエサをもとめ遊泳する。そして、異性と出会う。メスのクルマエビは、オスにつかまると、脱皮してオスの腕から一度逃れる。それから、ぷよぷよと身体が柔らかくなったところを再び正面からオスに抱きかかえられ、3分ほど一緒に泳いでいるあいだに交尾は完了する。 そうしてメスは、20時間ほど経つとまた硬い殻をまとう。いっときすると、背のあたりの卵巣が熟してくる。そこで、

忘れられた時を求めて~東台湾臨海道路|へうへうとして水を味ふ日記

おおきな金盥を裏返したような楽器から、洞窟の内部を反響するような不思議なしらべがひびきわたり太平洋の潮騒と交じり合う。腰かけている石のまわりには、色とりどりの「卵石」(丸い石ころ)が積み重なっている。 花蓮の友人が連れてきてくれた風光明媚な台湾東海岸は「七星潭」の風を受けながら、瞑想をたのしむアクティビティー。ハンドパンを鳴らすインストラクターの声にあわせて目をゆっくり開けると、海岸線は奥の消失点に向かって優雅な孤を描き、そのカーブが抱く海はラピスラズリを溶かしたような深

関門海峡のかっぱ アマゴゼ様|へうへうとして水を味ふ日記

「ねえ、おじいちゃん、あれが巌流島?」 祖父の背後から左腕に手をかけると、驚いて振り向いた顔は、見ず知らずの男性だった。 「あ、すみません!」 飛び上がって謝罪の言葉を伝え、そそくさとその場を離れ本物の祖父を探してかけよった。恥ずかしさで顔から火が出そう。白い波を立てながら走る、遊覧船のうえでの出来事だ。その前日だったか、何かしらの理由で祖父に叱られて少しの気まずさを紛らわすように、少し甘えてみようと思ったら失敗した。小学校高学年の女子らしい、厭らしい計算と浅はかさであ

石風呂の小宇宙|へうへうとして水を味ふ日記

「ひかりん、じゃあ徳地の“ロハス島地温泉”で待ち合わせね」 友人のM本さんに山口県は山口市徳地エリアに伝わる“石風呂”へ案内してもらうことになった。M本さんがわたしを「ひかりん」と呼ぶのは、高校時代から付き合いのある母校の先輩だからである。高校や大学時代の友人というのは不思議なもので、再会した瞬間から、何十年も昔の関係が瞬間解凍される。高校生同士のような気安さで、待ち合わせ場所に現れたM本さんの車に乗り込み、いざ石風呂めぐりへと出発した。 花崗岩を侵食して約50キロを流れ

京都の水盆で「台湾素食」のゆうべ|へうへうとして水を味ふ日記

「京都いう街はねえ、水のうえに浮かんでるんですわ」 昔、京都のとあるバーのマスターが台北に遊びに来て、いっしょに食事をしているとき、こういった。地獄の釜のふたがあいたような台北の夏の暑さ、そして骨にしみいるような冬の寒さが、京都を思いださせると話したときに返ってきた言葉だ。 京都では、大量の地下水が水蒸気となって地表に漏れでて、あの独特の暑さと寒さが生まれているという。帰って調べてみると、なるほど、京都の地下には大きな大きな水たまりがあって、その水量は211億トン、おとな

山頭火の水|へうへうとして水を味ふ日記

【新連載】 連載タイトルにある「へうへうとして水を味ふ」という種田山頭火の句をご存じのかたも多いと思うのだけれど、自由律俳句を代表する詩人で、放浪と酒びたりの人生を送った山頭火は、1927-28(昭和2~3)年ごろにこの句を作ったらしい。 今年の夏、台湾で種田山頭火を紹介する俳句集『行乞的詩人(乞いゆく詩人)』(種田山頭火 著、林水福 訳・解説)が出版され、その新刊トークイベントにわたしも登壇させてもらう機会があった。訳者の林水福さんは、川端康成や谷崎潤一郎といった文豪の