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幼児と本とおじいちゃん
私は、幼稚園に入園してから小学校の低学年くらいまでの間、月に1回程度、土日に祖父母の家に一人で泊まっていた。
たいていは、家族全員で祖父母の家に行って、私だけ残った。そして一泊して、翌日の昼頃に祖父が私の住んでいた社宅に送ってくれていた。
私を本好きにしたのは、祖父と母の影響が大きい。
母は、あまりモノを買ってもらえなかったそうだが、祖父母は本だけはたくさん買ってもらったそうだ。
特に祖父母は戦後であまりモノがなく、食べ物にも、活字にも飢えた時期を過ごしたからかも知れない。
聖書にはイエスが、
「人はパンのみで生きるのではない」
と、言ったと記されているという。
要するに、イエスは、単に食べ物だけではなく、言の葉によって人は生かされる、ということを伝えたそうだ。
暗い時代は特に、食べ物はもちろんのこと、それと同じくらい言葉も生きるのに必要だった私は思う。いや、場合によっては食べ物以上かも知れない。
だから、心は冷えきっていたとしても、できるだけ、他の人を生かすことができるように、温かい言の葉を届けたいと思っている。
祖父母と、母は、テレビゲームは一切買ってくれなかった。しかし、本はたくさん買ってくれた。といっても、本やさんに行った際に一冊ずつで、必ず読める、という程度の分であった。
祖父母の家を訪れると、祖父は私の手を引いてF県にあるT駅に歩いて連れて行った。
「何でもいいから、一冊えらびなさい。おじいちゃんは、自分の本をえらぶから。」
と、本を選ばせてくれた。
私は大抵、岩波書店の児童書を買ってもらった。本は、絵に惹かれて選んでいた。
サン・テグジュペリの「星の王子さま」、ミヒャエルエンデの「モモ」に「はてしない物語」、ケストナーの「点子ちゃんとアントン」、リンドグレーンの「ながくつしたのピッピ」、ヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズとかだった。
特に、「星の王子さま」と、「はてしない物語」は好きだった。
星の王子さまは、冒頭のウワバミに呑み込まれた象の話から大人は想像力がないという話から始まる。その場面が、本当に好きだ。それから一気に砂漠へ不時着した話になる。見たこともない砂漠の神秘と無機質さと、過酷な環境から紡がれる、他の星から来た王子と、飛行士との交流と、別れ。そして、目に見える形とか、物質、金とかではなく、目に見えないものこそ大切だと、人との絆を築き上げることの尊さを教える、優しい物語である。私自身、今もこの物語に救われている。
はてしない物語は、錬金術の要素がある。何かを得る代償に、何かを失う。主人公のバスチアンに得たいものを徹底的に得させ、得たものの代わりに記憶を失わせ、徹底的に落とすところまで落とし、気付かせ、這い上がらせる、ものすごいファンタジーでありながら、実はぞっとする物語である。私は、これを読んで、教えて気付かないものは経験で知るしかなく、谷底まで墜ちないと人は気付かないのだと感じた。作者のエンデは、堕ちることを否定していない。何となく、坂口安吾の「堕落論」を彷彿とさせ、私も堕ちるときは、徹底的に気付くまで堕ちたらいいと思う。たとえやり直しがきかなくて、全て失ってしまったとしても、気付きを得られたとしたら、そのはてには何かある、と教えてくれる壮絶な物語だ。
何れも、子どものためだけに書かれたものとは思えない。何かを得て、何かを失うことに慣れてしまった、大人のための物語である。
さて、祖父の話に戻る。
祖父は、大変な読書家であった。
いつもテーブルには本が置いてあって、早めに床につくが、しばらくは、スタンドで枕元を照らしながら本を読んでいた。
祖父の家に泊まっている私は、当時、夜が嫌で、誰かが起きていると安心した。そして、祖父のページをめくる音で安心して眠りに落ちた。
そんな祖父であったが、口が悪く、そして軽かった。それは、超絶的であった。
ある日、当時5歳くらいであった妹は、祖父母の家に遊びに来て、例のごとく祖父に連れられてふたりで駅前の本やに行った。
本やに行くと、紙のにおいに触発され、大がしたくなるというのはよく聞くが、妹の場合は小であった。小がしたくなったが、本を買ってもらいたいし、それまではお店を出たくない。だが、もう妹は我慢の限界にきた。
「おじいちゃん、おしっこ。」
祖父に駆け寄り、そう訴えたものの、もう間に合わなかった。
あっという間に、足元に大きな水溜まりができてしまった。
祖父は、逃げ足も速かった。
「◯(妹の名)ちゃん、帰るよ。」
妹の手を引いて、逃げるように店を出た。
帰り道、おしっこをもらした悲しさと、本を買ってもらいたかったのに買ってもらえなかった悲しさを抱える妹に、祖父はこうなだめたという。
「おじいちゃん、みんなに言わんから。」
それは、ウソツキの常套句である。
家に着くなり、祖母、父母、私にあっという間に祖父はばらしてしまった。どれだけ慌てたか、どんな逃げっぷりをしてきたのか、大袈裟に話しまくっていた。
妹は、悔し泣きをした。
しかし、一番気の毒なのは、小さな本やさんであった。
店主さんは、おじいちゃんと、パンツが気持ち悪くて変な歩きをしていた幼児が逃げ帰るのを見ていたに違いない。
あれから、10年近く後には、その本やは無くなってしまった。
祖父は、いつも妹との思い出話を語った後、冗談目かして、こういった。
「◯(妹の名)ちゃんが、おしっこもらしたから、かわいそうに、本やさんはなくなってしまったんよ」
恐らく、その本やが無くなったことに一番がっかりしていたのは祖父であるが、なにせ、天の邪鬼でもあった。
小さくても、店主さんがきちんと選書して、本を置いてある書店は、本当に好きだ。
大きなものが生き残る時代ではあるが、小さいけれど、本をとおして大事なものを教えてくれる書店はいつまでも続いて欲しいと思う。
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