マガジンのカバー画像

考えごと。

39
考えごと集です。テーマはバラバラ
運営しているクリエイター

#幕末

考えごと日記 その36 「孝明天皇と徳川慶喜の信頼関係とは?」

考えごと日記 その36 「孝明天皇と徳川慶喜の信頼関係とは?」

元治元(1864)年7月、徳川慶喜は長州藩による脅しから朝廷を保護するため、薩摩藩や会津藩など各藩の指揮を一手に引き受けてリーダーシップを発揮したとある。世にいう「禁門(蛤御門)の変」だ。そっかぁ、ここで慶喜は孝明天皇の信頼を不動のものにしたんだなぁ。

結果は長州藩の大敗。慶喜はこのときの活躍で孝明天皇の信頼をガッチリとつかむ。また同じく帝の信頼を得ている人物、岩倉具視はこのとき蟄居の身。岩倉と

もっとみる
考えごと日記その35 「237年ぶりが意味するものとは…」

考えごと日記その35 「237年ぶりが意味するものとは…」

文久3(1863)年、孝明天皇は京に上洛した将軍徳川家茂を従えて、攘夷の成功を祈願するために賀茂社へ向かった。

……のだが、おどろくことに天皇の行幸(外出)は、この時なんと237年ぶりなのだそうだ。つまり237年もの長い間、徳川幕府は天皇の外出すら許さずに御所に閉じ込め、ずっと朝廷を支配してきたのである。うへぇ〜〜〜ッ。

それを逆転させたのが岩倉具視だ。和宮の降嫁である。この時期、幕府の権威は

もっとみる
考えごと日記その34 「徳川慶喜の功績を考える」

考えごと日記その34 「徳川慶喜の功績を考える」

徳川慶喜は結果としては残念ではあったが、やろうとしたことは本当に立派であった。「慶喜が大政奉還したからこそ、明治維新が成就した」といっても過言ではないのである。

慶喜の考えた大政奉還は「自らが指導者となって開国を成し遂げ、西洋型の近代的議会政治へ転換すること」だった。慶喜は議会中心の新しい政府、新しいニッポンをつくるために自ら大政奉還し、平和的に改革を進めようとしたのである。

そもそも異国を追

もっとみる
考えごと日記 その33 『岩倉具視』を読んで幕末明治維新を考える

考えごと日記 その33 『岩倉具視』を読んで幕末明治維新を考える

やはり幕末明治維新のキーマンは岩倉具視なんだな。岩倉は朝廷内での身分は決して高くはなかったが、安政5(1858)年の「神州万歳堅策」、そして万延元(1860)年の「和宮降嫁に関する上申書」で、孝明天皇からの信頼をガッチリとつかむ。

そして文久2(1862)年、岩倉と大久保一蔵が初めて会見。さらにその4年後の慶応2(1866)年、パークスと西郷吉之助が初めて会見する。これで以下の徳川包囲網が完成す

もっとみる
考えごと日記その19 岩倉具視と幕末明治維新を考える

考えごと日記その19 岩倉具視と幕末明治維新を考える

明治維新という革命の中心にいたのは、岩倉具視とパークスのふたりであろう。とりわけ岩倉は多くの事柄にかかわっているようだ。たしかに蟄居期間もあるにはあるが、その間も薩摩や朝廷と接している。ただの蟄居とは思えない。そこでボクは、岩倉を追えば幕末明治維新のほんとうの姿が見えてくるのでは、と考えた。

岩倉は公家のなかでは身分は低い。その岩倉が一躍注目をあびるようになったのが、1858年の廷臣八十八卿列参

もっとみる
「サピエンス全史 下」 スペインによるアステカ帝国の植民地化と日本の幕末明治維新を考える

「サピエンス全史 下」 スペインによるアステカ帝国の植民地化と日本の幕末明治維新を考える

15世紀にメキシコ一帯を支配していたアステカ帝国。本書にはそのアステカ帝国をスペインが滅ぼし、植民地にした工程が記されている。これが非常に興味ぶかい。

なぜかというと、その流れが日本の幕末にそっくりだからだ。とはいえ流れはそっくりであっても、その異国人の来訪にたいしてのアステカ人の行動と、日本人の行動に違いがみられる。その違いについて考えてみたい。

そのまえに、まず幕末における欧米の日本植民地

もっとみる
「サピエンス全史 下」 第15章 科学と帝国の融合を読んで考える

「サピエンス全史 下」 第15章 科学と帝国の融合を読んで考える

いま読み中の「サピエンス全史 下」に、非常に興味ぶかいことが書かれている。いまや地球上のほとんどの人びとが、政治や医学、経済、金融、言語、音楽、服装などのあらゆる思考や嗜好の多くをヨーロッパに倣っている。

なぜヨーロッパなのか。それは帝国主義の時代に、ヨーロッパが世界経済を掌握したからに他ならない。ではなぜヨーロッパはそれを成しえたのか。なぜ地中海東のオスマン帝国、ペルシアのサファヴィー朝、イン

もっとみる