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考えごと日記 その37 「なぜ水戸藩は徳川宗家からのお咎めがなかったのか」

『逆説の日本史19 幕末年代史 Ⅱ』を読み始めたら、冒頭からめっちゃ興味深いことが書かれてあった。徳川御三家である水戸藩と、そこに伝わる「水戸学」という思想についてである。

水戸学には、徳川家よりも天皇家を尊重するという思想がある。すなわち、水戸は徳川の一門でありながら、徳川より天皇を尊重しろというのだ。(ついでながら、この水戸学がのちの尊皇攘夷思想へと結びついてゆく)

どうなんだろ、普通そんなことを言い出す藩があったら幕府からなにかしらのお咎めがあってもおかしくないと思うのだが。ましてや同じ徳川家の者が言い出したとなったら内部分裂しかねない。

ところがそんな水戸藩を、徳川宗家は放ったらかしにしていたのだ。ボクとしては、このことがずっと引っかかっていたのである。なのでいつか水戸藩や水戸学をちゃんと調べなきゃと思っていた。

そして本書であるが、これはあくまで著者の推測になるのだが、実はそこには「家康の指示」があったと考えるのだそうだ。なんとッ。ほぉ〜、なるほど。おもしろいのぉ。

要するに、将来もしも徳川が朝敵となった場合、水戸徳川家だけでも朝廷の味方になれば、徳川宗家は滅んでも徳川の名は残ると考えたのではないか、というのである。

いや、これ、著者の推測ではあるが、可能性としてはあるなぁ。しかもたしかに家康の考えそうなことだし。

それに家康の指示であれば水戸藩としても堂々と言える。普通なら宗家に対して反抗を示すような思想であるにもかかわらず、これならお咎めなしというのも納得できる。

とはいえ、これはあくまで著者の推測にすぎないこと。今後、ボクの史観を確立するにおいて、ひとつの可能性として念頭に置いておきたい。


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