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考えごと日記その19 岩倉具視と幕末明治維新を考える

明治維新という革命の中心にいたのは、岩倉具視とパークスのふたりであろう。とりわけ岩倉は多くの事柄にかかわっているようだ。たしかに蟄居期間もあるにはあるが、その間も薩摩や朝廷と接している。ただの蟄居とは思えない。そこでボクは、岩倉を追えば幕末明治維新のほんとうの姿が見えてくるのでは、と考えた。

岩倉は公家のなかでは身分は低い。その岩倉が一躍注目をあびるようになったのが、1858年の廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)だ。

黒船来航から5年、将軍家定とハリスの会見から1年。それは米国と結ぼうとしている日米修好通商条約(不平等条約)の締結に反対する抗議活動だ。

そのとき岩倉は、神州万歳堅策(しんしゅうばんぜいけんさく)という意見書を孝明天皇に提出している。じつはその内容に、岩倉の先見性の高さがうかがえるのだ。このとき岩倉32歳。

その意見書はおもに条約締結の反対をのべているのだが、必ずしも断固反対ではない。締結にはまず公家、幕府、諸藩の代表からなる使節団を欧米に派遣し、諸外国の実情を調査することを提案している。

このとき京では外国人を討ちはらえと、不穏な空気に包まれているころだ。そのような世情のなかで、外国人を討つのではなく外国を調査することを提案している。このことから岩倉は、物事を感情で判断するのではなく、かなり現実的な思考で判断する性質の持ち主だったことがうかがえる。

また明治維新をむかえる10年も前から、岩倉は欧米への使節団派遣を構想しているのだ。これには驚いた。その後、岩倉は幕府を維持するために、公家と幕府が協力しあう公武合体、佐幕派として活動することになる。

ところがその活動があだとなり蟄居。その蟄居期間に薩摩と接し、一転、倒幕派となるのだ。そして神州万歳堅策の意見書提出から13年後、岩倉はみずから岩倉使節団として欧米を視察することになるのだ。

ボク個人的には、岩倉とパークスは通じていたように思うのだがどうだろうか。公武合体を推し進めた佐幕派から、蟄居を経て倒幕派へと転じたこの期間、岩倉になにが起きたのかがすごく気になるのだ。そしてボクの幕末明治維新の歴史探索はまだまだつづくのだった。

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