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考えごと日記 その36 「孝明天皇と徳川慶喜の信頼関係とは?」
元治元(1864)年7月、徳川慶喜は長州藩による脅しから朝廷を保護するため、薩摩藩や会津藩など各藩の指揮を一手に引き受けてリーダーシップを発揮したとある。世にいう「禁門(蛤御門)の変」だ。そっかぁ、ここで慶喜は孝明天皇の信頼を不動のものにしたんだなぁ。
結果は長州藩の大敗。慶喜はこのときの活躍で孝明天皇の信頼をガッチリとつかむ。また同じく帝の信頼を得ている人物、岩倉具視はこのとき蟄居の身。岩倉と薩摩藩の交流は1865年ころからだから、まだこのときの岩倉に倒幕思想はなかったはずである。
このあと慶喜は将軍となって、孝明天皇を攘夷思想から開国思想へと説得するのだ。孝明天皇からしたら禁門の変からの信頼、そしてもともと尊皇攘夷を唱えていて、皇室とも関係の深い水戸藩出身の慶喜が開国を進言してきたのだ。これはもう開国しか答えようがなかろう。
いっぽう岩倉は蟄居中の1865年ころから薩摩藩と交流を始める。また同年にパークスが来日。そしてパークスは薩摩藩へ出向いて西郷隆盛と会見をするのだ。
これはボクの推測でしかないが、パークスと西郷は薩英戦争の戦後処理という名目で、じつはここで2人のあいだに倒幕の計画がなされたのではないかと考えている。
理由はまた別の機会に記すとして、要するにここから、岩倉 = 大久保 = 西郷 = パークスというラインで倒幕の計画がなされていったのではないかと想像する。
こうして朝廷と幕府と薩長の全員が開国論者となるのだ。ところが英国の支援を受ける薩長と岩倉は、幕府を倒して薩長の手で新政府をつくろうと考える。
いっぽう孝明天皇と慶喜は公武合体策として、朝廷と幕府で協力しあって新政府をつくろうと考えるのである。その後、孝明天皇は崩御し、後ろ盾を失った慶喜はひとり奔走することとなるのである。
慶喜は意を決して大政奉還し、新しい国づくりに着手しようとした。戦争をするのではなく平和的な国づくりだ。その矢先に岩倉の策略によって、あれよあれよとハシゴを外されていくこととなるのだ。
また大政奉還の1年ほど前にあたる慶応2(1866)年12月の孝明天皇の崩御。毒殺説もささやかれているが、たしかに帝は毒殺されてもおかしくない立場にあった。慶喜の後ろ盾となっている孝明天皇は、倒幕派にとっては目の上のたんこぶだからだ。
ま、こうしてドラマや小説で描かれる幕末維新の矛盾や違和感を少しずつ解決していって、いずれ、わし流の幕末維新の歴史を確立したいのぅ。
(注意)これはしょせんド素人の見解なので、どうか話半分で読んでください。
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