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「君死にたまふことなかれ」:人が人を想う、そこに希望を持ちたい(震災・戦争・感染症・自死)

ロシアによるウクライナへの攻撃は日ごとに激しさを増している。全人類を脅かしている新型コロナ感染症は、いつになったら「収束」するのだろう。そんな中、今年も「3.11」がやってきた。

世界的厄災に見舞われ、先行きも非常に不透明な中、わたしは、そしてわたしたちは、「どうあるべき」なのか。3.11という日を迎えながら、そんなことを考えていたときに、ふと思い出したのが、タイトルにある「君死にたまふことなかれ」という言葉である。

与謝野晶子がこの「君死にたまふことなかれ」を発表したのは、日露戦争真っ只中の時。戦争にかり出された弟のことを想って綴られた詩には、与謝野晶子の強い強い反戦のメッセージが込められている。

ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

11年前の今日、東北でたくさんの人が亡くなった。あの大きな揺れを経験しながら、また津波が襲ってくるのを目の当たりにしながら、きっと多くの人が、自分の大切な人を想いながら「君死にたまふことなかれ」と心の底から思ったはずである。そしてその願いは、叶ったり、また残念ながら叶わなかったりしてしまった。

ロシアによるウクライナへの侵攻を受けて、反戦の機運が高まっている。その出発点にあるのもまた、「君死にたまふことなかれ」という強い気持ちだろう。そして、この時の「君」は、「具体的な誰か」を想起していない場合が多いと思う。

そう、私たちはこの厄災の中で「具体的な大切な家族の誰か」へ向けるのと同じように「見知らぬ遠い国の誰か」に対しても、「君死にたまふことなかれ」と強く想うことができるのだ。

ウクライナの戦禍の真っ只中にいる少女にも、母がいる。同じように、(忘れがちな事ではあるが)ロシア兵一人一人にも、母がいる。そしてその一人一人の母は、娘に対して、また息子に対して、「君死にたまふことなかれ」と強く願っているはずだ。

それと同じ気持ちを、私たち一人一人も持つことができる、いや、もうすでに持っていて、世界的な大きく強い連帯が生まれつつある。

人間は他の人間に対して、その相手が家族であっても、また家族でなくても、よその国の見知らぬ人に対しても、「君死にたまふことなかれ」と強く想うことができる。

これは大きな希望だと私は思う。

震災、戦争、感染症、そして自死。人が人を傷つける。人が自らを傷つける。自然災害という大きなものに飲み込まれて理不尽に人が亡くなってしまう。

これらの悲しい知らせに触れた時、特定の誰かを思い浮かべても、また、特定の誰かを思い浮かべなくても、

「君死にたまふことなかれ」

と想う。それも強く想う。

その想いを広げ、つなげ、大きくしていくことで、(大袈裟かもしれないが)社会が世界が良くなる方へ少しずつ動かしていけるかもしれない・・・。

11年目の3.11を迎えながら、そんな人間の可能性について、希望について、考えてみた。


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