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小さな世界の中で。

ふとカレンダーをみると
もう3月も終わりに近づいている。

知らないうちに、季節も春になった。

私の住んでいる地域は、いわゆるソメイヨシノの桜の木はあまりなくて、河津桜というピンクが濃くて早咲きの桜が多いので、桜で春の訪れを感じる瞬間は少ないかもしれない。

そして、今年はもう、春を運ぶ美しい桜も散りはじめていることを知った。

数日前、友人が遠方から、花を届けにきてくれた。娘より半年遅れて産まれたチビちゃんと、旦那さんと一緒に。

私の、母のことなど色々心配してくれていて、
その気持ちがありがたくて仕方なかった。

私にとって、母の存在の影響というのは多分すごく大きくて、価値観のベースは母の生き方が基本になっていると思う。母が亡くなって、改めてその大きさが分かる。ありきたりだけど、本当にそうだった。

そして、花を手向けにきてくれた友人は、私よりも年下でバックグラウンドも全然違うけど、きっと鍼灸師にならなければ出会えなかった人で、今も私の価値観に大きな影響を与えてくれている。

私たちの住んでいる世界は、ある意味とても小さく凝縮されているとも言えるし、色々な枠を取り払えばどこまでも無限に広がっている。

イチゴ狩りにいった。
ハウスのイチゴで一番美味しい一粒を味わえた。
お腹が爆発するほどイチゴで満たされたのは小さな世界。

その小さな世界の外に、どれだけ大きな宇宙が広がっているかを教えてくれたのは母だった。高所恐怖症で脚立にすらろくに上がれないのに、若い頃に体が丈夫だったら、男だったら、宇宙飛行士になりたかったと、言っていた。

その母の影響で知った、相対的な速度や重力の影響によって時間の遅れが生じるというアインシュタインの相対性理論(←この説明であってるのかすら怪しい)は、小学生の私にとって、理解するにはハードルが高すぎたけれど、理解の外に広がりまくっている世界があることを想像するのは、楽しかった。

そして遠方から花と共に来てくれた友人、
仮名コウちゃん。

コウちゃんは、母が広げてくれた世界をもっと広げてから、ぐぐっとまた小さくして、その二つの大きな世界と小さな世界が同じものだということを教えてくれた。

私たちは、目に見えるものと、科学で証明されているエビデンスを信じることで安心するようにできている。

目に見えないものは不安定だし、科学で証明されていないものは不確かだからだ。

私も大抵は科学的な論拠をベースに話をすることが多い。分かりやすいから。

それでも時々、そんなロジックが関係なくなるくらいに、小さな世界では事件が起こる。

人の生死に関わる事件は、とりわけロジックが崩壊しやすい。

二度と返ってこない人とのLINEを眺めて、もしかしたら返事が来るのではと待ち続ける人もいる。

どうしてあの人だけが、あの子だけが、と思考が停止し、何年も動き出せなくなったりする。

小さな世界では、ロジックに縛られつつも、時折津波のように押し寄せる感情の波が思考を決壊させたりするのだ。

「こうしなきゃいけないと分かっているのに、中々動き出せない」

実際は、こうしなきゃいけないことなんてなくて、動き出さなくても良かったりする。決めているのは自分自身なんだよ、とコウちゃんは教えてくれる。

ロジックは、ロゴスに由来する。ロゴスは言葉だ。言葉を並べると論理(ロジック)になる。論理を積み重ねることが理論(セオリー)のベースになる。

私たちはそうやって、目に見えないものに名前をつけ、言葉を積み重ねることで不安を取り除いてきた。名前のないものは、敬遠される。名前をつけなければ、認識できないからだ。言語化できない現象、理解できない存在は時に疎ましがられる。

小さな世界は、未知の恐怖から、言葉という武器で守られている。新型コロナウイルスも、正体を明らめて対処法を共有することで安心を獲得できる。

そして日々慌ただしく過ぎていく小さな世界には、
小さな幸せが満ちあふれている。

春の晴れた日が気持ちいいこと。
プリンがおいしかったこと。
娘に笑いかけてくれる人がいること。

そして、小さな世界には、
小さなイガイガも散りばめられている。

春の晴れた日は花粉が辛いこと。(私は今のところ無関係)
娘がプリンを嫌がって食べなかったこと。(結局食べた)
娘が出先で盛大にわめき散らかすこと。(眠いことが多い)

小さくても大きくても世界は1つなので、私たちはどの側面を見ながら生きていくかで、見える景色はずいぶん違ってくる。

コロナウイルスの恐怖が蔓延しようとする中で、世界はまた新しい側面を見せるかもしれない。

日々は続いていく。

止まることも進むことも、結局は自分で決める。自分の意思ではないところで止まることを余儀なくされたとき、それをどう捉えるか。それを自分が決めれば良い。

言葉のない、現象の世界では、物事はあるがまま。勝ち負けも、正解も間違いもない。理解しようとしなければ、ただ、宇宙は、すべては、そこに在るだけだ。

母が亡くなったことに説明をつけようとすると、見つからない。悲しみもひとしきり続く。

けれど、それでいいよ、無理しないでいいよと教えてくれるコウちゃんがいて、まだロジックに縛られない自由な娘がいつもそばにいて、私は泣いたり笑ったりしながら、小さな世界の中で、平和な毎日を生きていける。

大きな世界は常に私たちを包んでいる。曖昧で捉えどころがなく、何からも支配されない。

小さな世界にはすべて名前がある。私たちは言葉を介して共有できる何かがある。

知る喜びを教えてくれたのは母だ。

人間の三大欲求(睡眠欲、食欲、性欲)を時に凌駕するのは、知る喜びであると。

研究者たちが感じる、寝食を忘れて没頭できる発見の喜び、小さい子供が事物を認知して、言葉として表現できた時の喜び。ご飯などそっちのけで、何度も何度も同じ単語を繰り返したりする、あのお決まりの、ご飯が片付かないパターンだ。

コウちゃんは、言語化が難しいことを、いつも分かりやすく説明してくれる。そうすることで色々な矛盾に気づくことがある。それでも、矛盾はあって当たり前、私たちは矛盾を抱える多面的な生命体であることを教えてくれる。

母の死を悲しみながら、日々の生活に小さな喜びを感じながら、時に虚しくもなり、ある時は希望に満ち溢れて、笑ったと思ったら泣いて、平気ですと言いながら心がギュッとしめつけられたりしても、大丈夫。

小さな世界の中で、生きていくっていうのはそういうことなのだ。

コウちゃん、いつもいつもありがとう。
私は時々疲れていて、大体は元気です。

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