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ショートショート#14『水瓶』2/2完結

 待ち合わせた駅に着いたとき、私は「ごめんね。」と口にした。ふいに出てしまった。口にしてすぐに後悔の波が私を追い込んでいく。それだけは、彼に言ってはいけなかったのに。

 付き合って1年が経ったとき、私の彼に対する態度が少しずつ変わっていった。表立っては何も違いがなかったかもしれない。けれど、何かものを言うとき、その言葉の端々にあった温かみみたいなものが徐々に冷めていき、きっと彼を見る視線にも表情にも、違和感が滲んでいたのかもしれない。2人でいるとき、私がふと目線を落とすと、彼は少し小首をかしげ私を見守った。
 たぶん心の中で

「どうしたの?」
「最近、疲れてる?」

 そんなことを聞きたかったのではないかと思う。でも、彼はそれをせずに静かに伺うばかりだった。そうさせたのはやっぱり私なのだ。「何が」という明確な理由は上手く言い表せられなかった。でも、痛かったのだ。どうしても彼の近くにいるのが苦しかった。

 私の気持ちを汲みするのが得意だった彼は、このときもやっぱり上手に私の気持ちを察したのだと思う。それでいて、ずっと言わないでいた。気付いていたけれど、気付かないふりをしてくれていた。

 けれど、今日きっと彼の中の水甕ももう溢れそうだったのかもしれない。私の水甕はすでにいっぱいいっぱいで、甕にはひびも入りつつあった。その水甕は、何を表しているのかはうまく言えなかったけれど、その水甕に名前を付けるのであれば「落としどころ」といった風であながち間違いではないように思う。

 別れてから、彼とは一度として連絡を取っていなかった。そして、今電話越しに、再会したのだ。

「実は、仕事も限界だったり、家のことでごたごたしててさ、ちょっと参っちゃった部分があったんだ。」

「うん。」

「で、先日ね、朝起きたらなんか音が可笑しいなと思ったんだよ。」

 正は、自分のイヤホンを右左交互に付けて確認をしたこと、右は聞こえる。でも左耳は――。

「病院に行ったらさ、心因性の突発性難聴だろうって診断されたんだ。まれに後遺症が残るみたいだけど、薬を飲んでストレスをできるだけ貯めないで生活していれば時期に治るだろうって。」

「うん。」

「だから、大したことはないんだ。全然、大したことはないんだけど……、」

 そう言いながら、言葉とは裏腹に彼の声はわずかに震えているようだった。

「俺、変に心配症だからさ。もしかしたらこのままどちらの耳も聞こえなくなっちゃうんじゃないかって。もう、もう文香の声は二度と聞けないんじゃないかって……。」

 嗚咽をかみ殺すように正は言った。

「ごめん、こんなことで電話して、声聞けて良かった、ありがとう。じゃあ、元気で。」

 彼が受話器から右耳を離してしまう前に、私は言わなければと思っていた。今回は、間違ってはいけない。ちゃんと、言わないと。

「正、ありがとう。」

 私がそう言うと、矩形の先で、小さな子らが遊ぶ姿を見て微笑むような朗笑を聞いた。
 液晶には「終話しました。」の文字が浮かぶ。
 彼にとってどうにもならない不安な夜だろう、そんなとき私を選んでくれてありがとう。声を聞きたいとそう思ってくれて、ありがとう。私の水がめが壊れる前に別れを切り出してくれて……ありがとう。
 
  窓の外は、依然と静謐さを保っていた。
もしも、私の耳が聞こえなくなると言われたら、最後に誰の声を乞うのだろう。しばらく考えて、ひとつ分かったこと、「でもそれは、正ではないだろうな。」ということだった。

                完


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