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『白人だったキャラを黒人が演ってよい理由』2022-09-16

 前回、私はドラマ『ロード・オブ・ザ・リング 力の指輪』批判する人々のことを擁護した。
 彼らは「黒人を見たくないだけの人種差別主義者」だから言っているのではないし、『指輪物語』には、エルフを白人に限定して演じさせることに十分な意義があると考える人たちの意見はうなずけるものだった。

 しかしそれにもかかわらず、私自身は「原作で白人だったキャラなのだから、黒人に演じさせてはいけない」を普遍的なルールとは考えていない。その逆も然りである。
 指輪物語は指輪物語だったからこそ、エルフを黒人にされることで損なわれる作品の魅力が幾つかあったのであり、いつもそうなわけではないのだ。
 
『力の指輪』にしても前回でも言ったように、批判者がキャンセルカルチャーと化して配信中止や俳優降板に陥らせるようなことをするなら、それには反対である(幸いにして、今も大勢はそうなっていない)。

 指輪物語論争が冷めやらぬ中、またも「白人だったキャラを新バージョンで黒人が演じて批判された例」が登場した。
 ディズニーアニメ『リトル・マーメイド』の実写版である。これについてはこちらの記事が詳しい。

 アニメ版のアリエルは言うまでもなく白めの肌で描かれているし、もっとさかのぼってアンデルセンの原作でも肌の白さについての記述は数か所にわたって見られる。
 また黒人の肌の色は紫外線対策として進化したものだが、彼女らは深海の住人である。少なくとも黒人と同じ理由で肌の色が黒くなるのは理屈に合わない(別に深海など暗所に住むすべての生物が白や明るい色をしているわけではないが)。

 しかし「ポリコレ」勢力は、この作品にいっけん逆行する主張をしているようだ。

アメリカのメディア監視団体は、「俳優の経歴と役柄をできるだけ一致させよ」と要求し、他にも『エクソダス:神と王』『アロハ』『プリンス・オブ・ペルシャ:時間の砂』もホワイトウォッシングだとして非難しました。

イギリスBBCも、「映画業界におけるこのようなホワイトウォッシングは差別問題である」という旨で強く非難する記事を公開していました。

When white actors play other races(BBC News, 2015)

この記事では、「観客は今、より本物らしさを求めている」として、「ネイティブ・アメリカンがネイティブ・アメリカンの役を演じるべきだ」と主張されています。また、「人種ではなく、演技力やキャラクターとの相性で白人を選んだ」という話も、よくある言い訳だと一蹴しているようです。

『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』と『リトルマーメイド』における黒人役者起用~ポリティカル・コレクトネスの問題と海外の反応~

 こうした「ポリティカル・コレクトネス」は肌の色だけでなく、要するに同性愛者やトランスジェンダーである人にも適用され、「そうでない人」は演じてはならないとされている。
 たとえばスカーレット・ヨハンソンは『Rub&Tug』でトランスジェンダー役に挑もうとしてバッシングを受け降板を余儀なくされた(なお同作は主演だけでなくプロデューサーもヨハンソン自身であったため、同作の制作そのものが頓挫した状態にある)。

 以前の記事でも、松崎悠希という俳優の主張を採り上げた。筆者は以前に反論したことですでにブロックされているが、ツイッター上で映画界に「ポリコレ」を要求して大騒ぎしている人物だ。
 彼はこれを「当事者による表象」と呼んでこの傾向を持ち上げている。

 しかし、この「当事者による表象」は、俳優側・マイノリティ側から見ても大きな問題を抱えている。
 上の記事では主に作品のクオリティへの影響、および経済的に弱小な製作者ほど負担になる(いわば「ポリコレの逆進性」)という面から彼に反論したが、今回は真にマイノリティのためになるのかという面を考えてみよう。

 たとえば、とあるアメリカ在住の日系人が、たまたま「アイヌ民族」だったとしよう。彼が役者を志した場合、彼に「当事者による表象」をさせてくれる場はあるだろうか。

 日本人という括りならともかく、「アイヌ」なんてものがアメリカの映画で取り上げられることはまずない。
 アメリカ人にとって「○○国人当事者」というのは所詮「○○国の大多数・マジョリティ・ステレオタイプ」の人々に過ぎないからだ。外国のさらに少数民族なんて、アメリカの社会運動で耳目を集めるわけがない。
 もしも当事者による表象が要求されていなければ、ふつうに日本人役の仕事があるたびに、または中国人や韓国人役として、彼は出られる役に出続けたことであろう。
 しかし、役者の民族性とキャラクターの民族性が一致しなければならないなら、彼はアイヌの役が無いかぎり役者としての収入は得られないのだ。そしてその機会は極端に少ない。

 アイヌだなんて隠して、日本人として活動しておけばいい?
 そう、それが問題なのだ。

 つまり「役者がその役柄当事者でなければならない」というのは、役者にカミングアウトの問題を突きつける。
 民族だけでなく性自認や性的指向でも同じことだ。
 もしゲイ役をやりたいゲイの役者がいたら、彼はその性指向を告白しなければならない。でなければキャンセルに遭って降板させられる。
 今までキャンセルに遭った「マジョリティ」の役者だって、本当は役柄通りのマイノリティであったからこそ登板しようとしていたのかもしれない。それを告白しなかったがためバッシングに遭っただけかもしれないのだ。
 そしてその可能性は、たとえキャンセルに遭ってでも言いたくないこと――つまり、激しく差別されている属性であるほど大きい。


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