指輪物語「黒人エルフ」批判と、「キャンセルカルチャー」の圧倒的民度差
2022年9月2日に、アマゾンプライムで配信されたドラマ『ロード・オブ・ザ・リング 力の指輪』が批判を浴びている。同作は『指輪物語』本編より以前の時代を描いた、いわゆる前日譚だ。
一例がこのツイートだ。
いわゆる「ポリコレによる改悪」の問題である。
従来『指輪物語』に登場するエルフは肌の色素が薄いのが特徴であり、これは『追補編』と呼ばれる資料に書かれている(後述)。映像にあってもそのイメージを尊重し、従来白人がキャスティングされていた。それが急に現代アメリカのような「人種混在社会」になるのはイメージがぶちこわしだというわけだ。
また他にも女性にも髭があるはずのドワーフがそうなっていないなど、ファン的には度し難い設定無視をおこなっているようだ。
当然ながら原作ファンから批判が巻き起こるわけであるが、これに対してポリコレ勢から「黒人エルフがいけないという批判者は人種差別者!」のレッテルが貼られており、批判者側が反論しているという状態だ。
ちなみに本作、そもそも指輪物語の前日譚――それも「第二紀」と呼ばれる作中の時代を描くうえで最重要設定資料であるはずの『シルマリルの物語』『終わらざりし物語』の使用権を制作側が取得しておらず、正当な前日譚を(謳っているにもかかわらず)作るのがそもそも無理がある状況が明らかになっている。
どのくらい無茶かというと「ドラゴンボール超の前日譚を作りますけどドラゴンボール(無印)やドラゴンボールZに出てくる設定は使えません。ちなみに時期はZのど真ん中です」くらいの勢いである。
ポリコレ改悪といえば、日本で知られた作品で言えば、Netflix版『聖闘士星矢』の【アンドロメダ瞬】が「女性化」されたことが有名である。
これも相当な批判を浴び、ツイッターでの議論からはプロデューサーのアカウント消去逃亡という事態を招いている。
黒人エルフ批判はキャンセルか
まず一番大事な話から始めよう。
この黒人エルフ問題について、常日ごろはキャンセルの加害者側である非人々から「黒人エルフ批判は表現の自由の侵害である!【表現の自由戦士】が黒人エルフを擁護しないのは矛盾だ!」と叫ばれている。
もちろん、そうではない。
なぜなら『力の指輪』批判者は、その内容を批判しているのであって、配信中止に追い込んで撤回させるために運動しているわけではないからだ。
フェミニストのように何らかの「社会正義」にかこつけて、性犯罪を助長するとか、子どもを傷つけるとか、【公共の場にふさわしくない】!などと戯言を言い張っているわけでもない。
意見窓口のURLを貼り付けてクレームを煽るようなこともしていないのである。
もしも過去フェミニスト等がやってきたように、力の指輪は配信を禁止するべきだ、などという運動が起こったらもちろん「表現の自由戦士」達はその愚か者を批判するだろう。
『力の指輪』の表現の自由を守れ!と言われないのは、その自由が脅かされていないからに過ぎない。
そして重要なのは、それが「本心だ」ということである。
『力の指輪』の原作との齟齬を批判する人々は、その排除を求めているわけではない。
普段キャンセルカルチャーをしている連中、代表的なのはフェミニストだが、彼らもまた口先では「内容を批判しているだけだ!」と言うことがある。
しかし言うまでもなく「フェミニストは嘘をついているが、『力の指輪』批判者は本当にキャンセルを求めていない」のである。
先述した、Netflixの『聖闘士星矢 Nights of Zodiac』も、別にその削除などを求められているわけではなく、現在でも視聴することができる。ただ不満な出来だったというだけだ。
要求を押し通すために嘘をつくことは、フェミニスト達にとっては呼吸以上の日常である。しかしある作品の熱心なファン達にとっては、本心からただ新しいバージョンを評価しているだけなのである。
ちなみに、指輪物語wikiの本作のページでも、コメントでこのポリコレ改変について触れられている。ここではどちらかというと本作にも寛容な雰囲気で、むしろポリコレを毛嫌いするのも過剰反応があるのではないか、という論調だ。
しかしここでも「今の時期、全世界に向けて製作するにはポリコレを取り入れずに製作進めるなんて無理」と言われているように、ポリコレが作品そのものの製作を潰される現実の脅威になっている状況であり、一方アンチポリコレ側は「走りすぎてる」とされる人さえもそのような脅威をもたらさず批判に留まっていることが認知されている。
このいわば民度の不均衡は、何度でも再確認されるべきであろう。
黒人エルフ批判は人種差別か
もちろんノーである。
そもそも黒人であれ女性であれ、ポリコレと呼ばれる「何らかのマイノリティキャラの導入」が否定的に見られるのは、ほとんどつねに、それが原作の味を損なう(少なくとも、その可能性が高い)とみられる場合である。
従って原作の存在しないオリジナル作品で、黒人が出ようと女性が出ようと文句を言われることはまずない。
そのような場合にまで文句を言うような人物はそれこそ「ガチ」なレイシストであろう。だがそもそも日本でそのような声が大きくなることは想定が困難である。
まず日本人のオタクが黒人や褐色肌のキャラクターにそれ自体問題を感じないことは、何重にも証明されている。
ディズニーが初めて「黒人のお姫様を出したぞ!」と自慢げに出してきた『プリンセスと魔法のキス』が2009年作品である。
日本ではその20年も前に『ふしぎの海のナディア』が黒人のプリンセスを主人公にしているのだ。
それどころか1945年に始まった山川惣治『少年王者』が、すでに黒人の貴種流離譚を描いている。
ファンタジー作品の「エルフ」という括りで見ても、指輪物語のような抵触する問題さえなければ、肌の黒いエルフというキャラクター自体は珍しくないし、作品の受け手に問題なく受け入れられてきた。
従って「黒人や褐色肌のキャラクターが登場すること」が嫌われていないことは明らかである。
そもそも日本人のオタクなら、日本の作品に黒人のキャラクターなど幾らでもいて、彼らがファンに十二分に愛されていることを知っている。
逆に、原作から人種を変えられたことで原作の設定やイメージがぶちこわしになった作品であれば、それが白人になったのであっても十分な批判を受ける。
したがって批判者たちが問題にしていることは「黒人が出ていること」ではまったくないのだ。問題はポリコレによって「作品を改悪、原作をレイプしていること」である。
『指輪物語』の特質
このような批判は、意を通じ合っているわけでも、インフルエンサーにひたすら追従して同じことを言っているわけでもない(フェミと違うところがここにもある)個人の批判が結果的に集合したものに過ぎない。
もちろん「私はそんなところは別にいいや」という人がいてもいい。結局、各個人がどの程度「そこ」に評価のウェイトを置くか、また「そこ」に置いている人がファン層のどれくらいを占めるかという話である。
言い換えればファン層が原作のどこに魅力を感じているか、その作品の「ウリ」は何かで変わるということだ。
したがって究極的には「お気持ち」で決まるということになる。
ここでキャンセル界隈・フェミ界隈の人々が叫び出すのは分かっている。
「だったら、表現の自由戦士がフェミニストを批判しているのと同じ『お気持ちだけで基準がない』ということじゃないザマスか!アテクシ達を批判しておいて、矛盾ザマス!!」と。
これに答えるのは簡単であって
「個人のお気持ちを単に表明して作品を批判するだけのことに、統一ルールは必要ない。しかし、その作品を排除したいなら、せめてルールを提案してこい。そのルールの妥当性を検討しよう」
ということだ。
ルールが必要なのは、処罰が公正に行われるようにするためだ。そもそも『力の指輪』やその関係者に対する処罰など誰も執行しないし、それを意図してもいない。
だからこれは「各自の勝手な基準」で、お気持ちで、十分なのである。
その上で『指輪物語』は、とてつもなく設定に凝りまくっていることがまさにその特徴なのである。もちろんそれは、少なからぬファンがその点にこそ魅力を感じているということだ。
Wikipediaの表現を借りればこういう作品だ。
だからこそ「原作巻末の追補編にこう書いてある」などという、他の作品であればそれほど問題にならないような部分が争点になる。
「反差別」の描き方は一つではない
「ポリコレ信者」たちがつけるもう一つの難癖は
「トールキンはもともと反レイシズムの人だった!だから黒人エルフを批判するお前らは原作者の意図に反している!」
という意見である。
下の英文記事がその代表だ。
題名からも分かるように、力の指輪批判を「レイシストのバックラッシュ」と決めつけているだけの愚にもつかない記事である。
トールキンは反人種主義者だった?
そのとおり。だから問題なのだ。
指輪物語のエルフには「神によって最初に作られた種族」であり「高貴で長命」という設定がある。
それ故に彼らはオークのような悪役種族ばかりでなく、ホビットやドワーフといった善サイドの異種族さえも見下しているふしがあるのだ。
ここに指輪物語の描く「人種問題」「マイノリティ問題」がある。
本作に影響を受けた現代日本の多くのファンタジー作品でも、エルフは「高貴な」「誇り高い」性格として描かれるのが通例で、それゆえに排他的な種族として登場しがちである。
これはまさにトールキンが「お高くとまった差別的な」という白人の特性を批判的にエルフに付与していたからでもある。
つまり指輪物語のエルフの書き方は、まさに作者なりの「人種」へのアプローチだったのだ。
本来は「お高くとまった白人」的な存在であった彼らが、有色人種的な他の種族(ホビットやドワーフら)に対して心を開き、ともに悪に立ち向かうようになっていく――これが『指輪物語』本来の人種克服のあり方である。
エルフが最初から現代政治的にコレクトで、氏族内でまで「人種のサラダボウル」であったのでは、この後の歴史で起こるはずの対立・蔑視の克服がなかったことになってしまう。
つまり『指輪物語』のエルフ達に現代のポリコレ的「人種混在」をさせてしまうことは
「差別的だった作品を差別的でなくする」ことではなく、「指輪物語が本来持っていた反差別のメッセージを、ポリコレの陳腐なそれに置き換えてしまう」ということに過ぎないのだ。
トールキン自身がどこまで意識的にそうしていたかはともかく、こうした対立から和解へのカタルシスが原作の魅力になっていることは否めない。
「近すぎる異世界」
もうひとつ、こうした「ポリコレによる歪曲」には問題点がある。
「押しつけがましさ」「上から目線」であることによる悪印象は世間で散々言われているが、それを割り引いても、ポリコレには大きなマイナス点がある。
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