【公共の場にふさわしくない】
違法性や有害性を示せない表現に対し、その排除を正当化するための言い訳に使われる詭弁のひとつ。
公共機関によるアニメ風イラストのポスターなどに対して、その些細な「お色気」を攻撃し排除要求するための「突破口」として使われることが多い。【公共性が高い】【TPOを守れ】といった常套句も同じ目的に使用させる。
特にフェミニストがこれを多用する。
嫌いな表現自体に何ら問題がないため「公共の場だけからでも」排除しようとする、いわゆるフット・イン・ザ・ドア戦術の一種である。
これらの言明は完全に間違っている。
実際には「公共の場にふさわしくない表現など、存在しない」。公共の場で性的な表現をしてもいいし、大声を出してもかまわない。
人によっては「市立図書館で大声を出してはいけないじゃないか!公共の場で禁じられる表現はある!」と言うかもしれない。
その理論はまったく誤っている。
図書館で騒いではいけないのは、公共の場であることとは何の関係もない。図書館の用途に支障を生じるから騒いではいけないルールがあるに過ぎず、それは民間の図書館でも同じことである。
公共施設でも用途に応じて大声を出すことが許されていることは幾らでもある。コンサートホールやスポーツ施設がそうである。
公共の図書館がポルノ小説を所蔵することは差し支えないし、公共の美術館が春画・裸婦画を展示してもかまわないし、公共のイベント会場で行われる商業イベントでアダルトグッズの展示・商談がなされても何の問題もない。
それらの可否は、それぞれの場の用途に適うかどうかを基準にしており「公共の場かどうか」などという観念の出番はない。
つまりその場の用途に応じてルールが設けられているに過ぎず、公共か民間かは何の関係もないのである。表現を排除する理由として「公共の場」は論理的に何ひとつ意味をなさない。
また、フェミニストはたまたま公共の場にあるからそれが問題であるかのように装っているだけで、公共の場でなければ別の理由で言い掛かりをつけるだけである。
民間企業の広告や、特に公共機関とコラボレーションしていない漫画やアニメ・ゲームなどの作品、「ゾーニング」されたアダルト書籍やアダルトグッズ、果ては昔話に至るまで、未だ嘗て彼らが「これは公共の場ではないからセーフ」と言って矛を収めたことなど一度も無かったのである。
こうした場合には、フェミニストの行動パターンとしては「正確には公共の場ではなくとも、【公共性が高い】」と拡大解釈で乗り切ろうとする傾向にある。
また、フェミニストが「公共の場」に萌え絵広告があることを敵視するもう一つの理由についても説明しておこう。
それは「格下であるべきオタクが公の場で仕事もらって受け入れられてるのが許せない」という要素である。
女性向けの漫画の広告などでしばしば、主人公の女性を見下している悪役が、はるかに地位の高いキャラクターに主人公が愛されていると知って驚愕するという展開がある。こうしたシーンは男性向け作品では、通常主人公の存在感をライバルに意識させる「因縁づけ」程度のものであって、この後に実際のライバルとの対決が待っており、読者が楽しみにしているのもそちらの方である。
しかし女性向けではこれこそが勝敗そのものでありクライマックスなのであり、だからこそ広告に選ばれるべき最高のシーンなのだ。
このように女性は場の権力に固執する生物(カースト・ビースト)であり、公共の場は単に大勢の人に見てもらえる場というだけでなく、権勢による承認の証なのだ。
だからこそ、そこに自分より格下たるべき者の文化である「萌え絵」があるのが気に入らないのである。
最後に、フェミニストは本心では「公共の場における差別表現」を問題視していないことを指摘しておこう。
このことは2019年の東京大学入学式で明らかになった。
東京大学は言うまでもなく国立大学、つまり公共の場である。その東大の入学式祝辞でフェミニスト学者・上野千鶴子は、男子学生に対し「男子学生は優遇されているので東大に入れた。努力の結果ではない」と性差別的(であり、なおかつ多くの誤りを含んだ)発言を言い放ったのである。
ではフェミニスト達は、この「公共の場」における発言を批判したであろうか。
いいや、みな大喜びで絶賛したのである。
このことでフェミニストが実際には「公共」を尊ぶ精神性など、いっさい持ち合わせていないことが明らかとなったのである。
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