【ぼっち・ざ・ろっく!】「後藤ひとり」という名前について
これを書いてから3日経ち、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』2周目を見終えようとしているお猿です。
そしてそのnoteが公式のマガジンに収録された。
ありがてぇ・・・(*'-'*)
今回はその『ぼっち・ざ・ろっく!』についてのnote第二弾。
本作の主人公「後藤ひとり」の名前についてをテーマにnoteを書いていく。
初見ぱっと見の印象は「すごい名前だな」と。
自分の子供に「ひとり」って名付ける親がいる設定でこの作品は始まるんだな。
妹は「ふたり」だしね。
安直だよ笑。
その名前が幸か不幸か、「ひとり」→「ひとりぼっち」→「ぼっちちゃん」というあだ名を生んだ。
本人は友だちにあだ名を付けてもらえたことを喜んでいたけどね。
ネット上でも結構名前についてのイジりが見られる。
「『ぼっち』というあだ名はひどいんじゃないか」という意見も見られた。
まぁでも、作品が「ぼっち少女がバンド活動をしていく」ってものだからぼっちである必要があるのだけど、自分と重ねるとひどいと思う人もいるんだろう。
「後藤ひとり」という名前の元ネタは実在するバンドのメンバーの名前から取っているらしい。
そして『ぼっち・ざ・ろっく!』のタイトルを回収するために「ぼっち」が連想できる「ひとり」を名付けた。
ここまでが一般的に言われていること。
ここからは完全にお猿の意見。
「ひとり」という名前には「独自の世界観」という意味が込められている!
僕みたいにこうやって自分の想いを表現する人は「独自の世界観」というものが必要である。
前半で書いたような「『ひとり』って名前ひどくね」という話はすでにまとめられてるし、今後そういったことはAIがやるようになる。
そんな「自分」というのが重要視されてくる今後の世界で「独自の世界観」を持てるのはものすごいアドバンテージになる。
ぼっちちゃんはそういうことができる人、そういう人であって欲しいと願われた存在。
その証拠にぼっちちゃんはバンド内で作詞担当である。
作詞担当に任命されて最初に書いた詞は、明るい応援ソング。
ぼっちちゃんとは正反対の明るいリードボーカルが歌うなら、明るい歌詞がいいだろうということで書かれた歌詞だけど、「ぼっちらしさが欲しい」ということで再考を促されるシーンがある。
「明るい子が根暗な歌詞歌うのおもしろいじゃん」
この提案がぼっちちゃんの生きる道を示しているように思う。
もちろんこの生き方にはデメリットがある。
自分の世界に引きこもる可能性。
独自性が強すぎると周りに馴染めず孤立する。
だからずっと「ひとりぼっち」だったぼっちちゃん。
多くの人が思い描いてる”真ん中”を歩めない「後藤ひとり」。
だけどその歩き方を「おもしろい」と言ってくれるバンドメンバーに出会うことで物語が進んで行く。
「後藤ひとり」は「ひとりぼっち」であるべきだから「ひとり」と名付けられた。
その理由は、独自の世界観を築き上げ、それをおもしろがれる仲間と共に、「これが”真ん中”でいい生き方もあるんじゃない?」と表現すること。
これを考えると「ふたり」という名前の意味も見える。
ぼっちちゃんの妹ね。
彼女は人付き合いが上手であり、人と人とを繋げて「二人にする」役割がある。
ぼっちちゃんのバンドメンバーが家に来たときも、何のためらいも無く初対面のお姉さん達に話しかけるコミュ力を齢5才にして身につけている鬼才。
「おねーちゃんてくそめんどくさいね!」
「お姉ちゃんだれもお友達いないもんねー」
と、純粋ゆえなのか辛辣な言葉を繰り出す妹。
そうやって話しかけることで自分とセットで「二人」にしたり、姉と誰かを繋げて「二人」にしたりする。
そんな役割があって「ふたり」って名前なんじゃないのかな。
一人目だから「ひとり」、二人目だから「ふたり」と安直に名前を付け、あげく「ぼっちちゃん」という屈辱的に見えるあだ名を付ける元凶を作ったぼっちちゃんの両親。
だけどこうやって考えると、これからの時代を生き抜くために必要な人格形成を名付けの段階からしていた、先を見る目のある両親じゃないのかなと。
あくまで僕の意見だからね。
ということで終わり!読んでくれてありがとう。スキやコメントよろしくね。
じゃあ、また。
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