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優しさという生存戦略

 自己申告も何だが僕は基本的に優しい人間だ。ただし別に人格が優れているから優しいのではないし、優しいから偉いというものでもない。他人にとって都合の良い人間になることで居場所を得ようとしているだけだ。

 どのくらい優しいかというと、自分を傷付ける人間にも事情があったのだろうと考えるくらい。これは攻撃を仕掛けてくる人物から離れられない場合に有効である。戦闘体制てはなく共感的に寄り添うことで、相手の攻撃性を弱める効果が期待できる。

 二人だけの関係であればそういう共依存的関係でも良いかもしれないが、第三者にとっては困ったことになる。

 依存症やモラハラ気質の人の近くにいて擁護する人をイネイブラーと呼ぶらしい。問題行動を可能にする(enable)人という意味だ。その人が酷いことをしたとしても「仕方なかった、あなたは悪くない」と庇ってしまうことで、反省の機会を奪い、知らず知らずのうちにスポイルしていく。良くない行動を助長し、告発しようとする人を黙らせ、事態を悪化させる。

 そうした性質は褒められたものではないはずだが、優しさとか共感性の高さに見えるので毒性に気付きにくく、むしろ奨励されてしまいがちだ。

 優し過ぎるのは共感のバグと言えるかもしれない。本来は共感の必要のない範囲にまで無限に共感と同情の対象を広げてしまうのだ。

 虫も殺さないという比喩的表現があるが、実際に虫さえ殺せないとなると生存にはむしろ不利である。自分にとって害のあるものを排除できないのだから、優しくあるという生存戦略が裏目に出ている。

 僕は本来優しいのではない。自分のために優しさを装っているだけだ。忖度しないこと、自分はサンドバッグではないと示すことの罪悪感から逃れられないだけだ。私の顔色を窺いなさいという親の教えを忠実に守り続けてしまっているのだ。優先順位のバグが起きて、我が身の安全よりも他者が気分を害さないことのほうが重要になってしまっているのだ。

 深く根を下ろしている優しさという名の忠誠心を捨て去ってしまうことはできない。それは僕の精神そのものだから、僕が僕でなくなるこでしか手放せない。纏足されて育った足は、縛る布を解かれても永遠に変形したままだ。

 僕の優しさは僕の歪みだ。歪んだままでも痛みの少ない歩き方を探しながらきっとこれからも生きていく。

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