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忘れたい何かを取り戻す

 消し去ってしまいたい記憶も自分を構成する一部分ではあるのだから、忘れようとすれば心のどこかを切り離すことになる。

 夫を忘れようとしていた。そのことに気付いた時、身体に中身が少し戻ってきたような気がした。ランダムに形を変える模様のようだった景色が意味を取り戻そうとしているのを感じた。

 僕の生活の大部分は夫に紐付いていた。夫を忘れるためには、生活を忘れる他なかったのだ。

 ほぼ夫としか話さない生活だった。僕はフリーランスだから自宅が仕事場で、家事のほとんどを受け持っていた。外に出て人と会うような用事は滅多になかった。

 僕自身がそういった生活を望んでいた。穏やかな余生を送りたかった。友人や知り合いとの連絡をできるだけ断ち、持ち物を増やさないよう心掛けて、しがらみを減らそうとしていた。僕がいつ消えても良いように。

 僕は夫に依存していた。離婚なんか考えたこともなかった。ずっとこの人といることを選んだのだという覚悟のようなものがあった。

 別居してからも夫のことばかり考えていた。彼は今どうしているだろう。何を思っているだろう。何を望んでいるのだろう。彼は本当はどういう人だったのだろう。彼の何が悪かったのだろう。僕の何が悪かったのだろう。

 自分の一つひとつの思考と行動に、彼はどう思うだろうと疑念が付きまとった。こんなことを言えばきっと彼は嫌な顔をする、鼻で笑われるかもしれない。心の内側に住んでいる彼の顔色が気になって、何をするにも言い訳が必要だった。

 子供の頃からずっとそうだったのだ。監督者が親から夫になっただけ。自分の頭で考えて決めるとか、自分のやりたいことをやるとか、そういうことをしてこなかった。

 親の思い通りになることを拒否し、夫を頭から追放したら、何を基準に生きれば良いかよくわからなくなった。娘でも妻でもない僕が何者なのか僕は知らない。

 夫と離れた人生を歩むために、とにかく心の中から夫を排除したかった。それに夫の返事を待つ時間が辛かった。この二年ほど、ずっと待っていた。どんな返信が来るかと思いを巡らせ、今か今かとスマホの通知音に怯えて神経を擦り減らしたくなかった。

 だから棚上げしてしまったのだ。自分の心ごと。

 現実を生きようと思うなら、封印したものをこの手に戻さなければならない。封印されたままの感情は箱の中から復讐を企てるから。

 川の流れに逆らって歩くような抵抗を感じる。それでも心を取り戻さなければならない。ちゃんとやきもきして、ちゃんと喪失の痛みを感じなければならない。今をちゃんと苦しまなければならない。

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