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「名言との対話」9月20日。加藤秀俊「時間的な持続力をもった人間が例外的な偉人として珍重される。、、もしも何十年かの人生を通じて、なにごとかについての持続力をもつことができるなら、それは、とりもなおさず、「生きがい」のある人生であった、ということである。」
加藤 秀俊(かとう ひでとし、1930年(昭和5年)4月26日 - 2023年(令和5年)9月20日)は、日本の社会学者。享年93。東京都出身。 1970年の大阪万博のプロデューサーだった小松左京の述懐「大阪万博奮闘記」を読んだことがある。日本万国博覧会に尽力し、林雄二郎(51歳、梅棹忠夫(47歳)、川添登(41歳)加藤秀俊(37歳)、小松左京(36歳)らは1968年に日本未来学会を創設した。親しかった梅棹忠夫について加藤秀俊は「梅棹さんは先々まで見通して手を打つ人だった。
「名言との対話」9月19日。ゴーマン美智子「疲労を乗り越えて、ある日突然自分の身体が一段上にシフトされるのが感じられるのだ」
ゴーマン美智子(ゴーマンみちこ、英名:Miki Suwa Gorman 、旧名:諏訪美智子、1935年8月14日 - 2015年9月19日)は日本出身でアメリカ在住の女子マラソン選手。享年80。 中国の青島(チンタオ)で生まれ、東京育ち。28歳で学生ビザで渡米という遅い出発だった。いくつかの家庭で過ごす。「自由と独立」が美智子の希望だった。いくつかの条件の良い申し出を断っている。「たった一度の人生ではないか。思う存分自分で開拓できないでどうする」。「最も退屈する男は人の造っ
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「名言との対話」9月15日。樹木希林「今なら自信を持ってこう言えます。今日までの人生、上出来でございました。これにて、おいとまいたします」
樹木 希林(きき きりん、1943年1月15日- 2018年9月15日)は、日本の女優。享年75。 文学座研究所に入り、杉村春子にカンの良さを認められ付け人となる。18歳、悠木千帆の名で女優になる。「芸能界では“勇気”が必要」として父親が考案した芸名だ。後にこの芸名を競売にかけ、40万円で売っている。本格的な女優デビューは20歳、テレビドラマ「七人の孫」で主人公役の森繁久彌に才能を見出された。テレビドラマの「時間ですよ」、そして「寺内貫太郎一家」での主役の母親役など演技は人
「名言との対話」9月14日。高山辰雄「何をするのでも、100年や200年じゃ達成できない。未完成というのも正しい在り方かな」
高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月26日 - 2007年(平成19年)9月14日)は、日本画家。享年95。 大分市出身。小学生で画家になろうと決心する。東京美術学校(東京芸大)の卒業制作「砂丘」ではセーラー服姿の女性がモデルとなった。この砂丘は房総半島の御宿の砂丘である。画家を目指していたモデルの女性やゑ(八重)と高山は結婚している。 若い頃、東京大空襲の惨状を体験する。「何もかもが焼き尽くされた風景を見て、心が奮い立った」。ゼロからやっていくとい
「名言との対話」9月13日。辻勲「ガブリと口一杯にほおばって、世のありとあらゆるものを食いちぎり、食べ散らかしーー飲み込み吐き散らす」
辻勲(1923年7月15日ー2003年9月13日)は、料理研究家。享年80。 この人を、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)では、次のように説明している。父・徳光の日本料理に逆らい西洋料理からスタート。1946年日本割烹学校栄養食品科専任教授、学科長及び月刊「家庭と料理」編集局長を兼務。1952年副校長、1959年日本調理師学校(現・辻学園日本調理師専門学校)を創立、校長に就任。のち学園長。1961年ニッポンフードサーヴィスを設立、代表。家庭料理教室であ
「名言との対話」9月11日。加藤九祚「人生に、もう遅いはありません。老いは免れませんが、好奇心は抑えられなかった」加藤 九祚(かとう きゅうそ、1922年5月18日 - 2016年9月11日)は、人類学者。享年94。
韓国生まれ。10歳で来日し韓国姓の李を加藤に改名する。工業学校を経て鉄工所に入社。上智大学予科を仮卒業し入隊に満州へ。1945年ソ連軍の捕虜となり、5年間を過ごす。上智大学に復学し卒業し、1951年平凡社に入社。1971年退社し念願のシルクロードの旅にでる。1975年に国立民族学博物館教授に就任し、ソ連とモンゴルの民族学標本収集と研究に従事する。1985年の定年退官後は相愛大学、次いで創価大学教授としてシルクロード研究センター長をつとめる。退職後にウズベキスタンのテルメズ郊外
「名言との対話」9月8日。水上勉「西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は長生きしたい」
水上 勉(みずかみ つとむ、みなかみ つとむ、1919年(大正8年)3月8日 - 2004年(平成16年)9月8日)は、福井県出身の小説家。享年85。 水上勉『冬日の道・わが六道の闇夜』を読了した。ある編集者が「文壇へわらじ履きで登場してきた観がある」といったそうだ。中学をやっと出た後、多くの職業遍歴を重ねている。日本農林新聞、報知新聞、学芸社、三笠書房、日本電気協会、小学校助教、虹書房を起業、文潮社、日本繊維新聞、東京服飾新聞、洋服行商人。、、、 自伝の後半の「わが六道