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「名言との対話」4月15日。山本正「人間の安全保障」

山本 正(やまもと ただし、1936年3月11日 - 2012年4月15日)は、日本を代表する国際主義者。日本とアメリカを始めとするその他の国との民間交流の強化を先駆的に提唱した。享年76。

東京出身。香港、ボンベイを経て帰国し、上智大学に入学、その後米国セント・ノーバート大学、マーケット大学経営学院を取得。1962年には大統領選時に接したケネディに影響を受ける。

帰国後に信越化学工業小坂徳三郎社長秘書時代に、1967年から、日米の有識者による政策対話「下田会議」を開催し、1990年代まで続けている。日米の有力者同士のつながりをつくった。

独立した山本は1970年には日本国際交流センターを設立し、理事長に就任。1973年には日米欧委員会の創設メンバーともなった。日米賢人会議、日米諮問会議、日韓21世紀委員会などの事務局長を引き受けている。小渕内閣鳩山内閣でも総理との懇談会に委員もつとめている。

山本の活動は広い。アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカなど全世界と日本との交流に力を注いでいる。その功績で、オーストラリア、ドイツ、イギリス、日本の政府から表彰を受けている。2011年委は旭日中綬章を受章。

山本正の戦後の50年以上にわたる献身的な努力には頭が下がる思いがする。日本とアメリカからどのように感謝されたか、以下の人物評をみればわかる。

  • トム・フォーリー(米国下院議長)「我々の二国間関係の強化にこれほど効果的な人物は他にいない」

  • ウオール・ストリート・ジャーナル「日米同盟の熱烈な擁護者」

  • ジェラルド・カーティスコロンビア大学教授)「彼(山本正)は、民主主義国同士の交流は民間が主導するべきだという信念を捨てなかった」

  • 松山幸雄(朝日新聞論説主幹)「山本は国際交流のために他の誰よりも多くのことを行った。名実ともに何もないところから始めたのに、彼は(彼が接した)全ての人から好かれていた」

日本は発信の少ない受信型文明であり、沈黙の経済大国でああった。国際関係においては、外部からの情報を一方的に受け取る直流型であった。山本はそれを「交流」に変えようとしたのだろう。

山本正は冷戦終結後には「人間の安全保障」の概念を提唱し、日本外交の柱の一つとなった。緒方貞子が共同議長をつとめた国連の「人間の安全保障委員会」は、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」と定義している。その考え方が、日本外務省、JICAの方針となったのである。

人間の安全保障とは、国家の安全保障に対する概念である。外務省の開発援助ODAのホームページには「人間の安全保障とは,人間一人ひとりに着目し、生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り、それぞれの持つ豊かな可能性を実現するために,保護と能力強化を通じて持続可能な個人の自立と社会づくりを促す考え方です。」と記されている。安全保障の中には、環境、人権、難民、貧困などの脅威にさらされる取り組みの行って、人間の身体の安全と心の安心を手に入れようという考え方である。

私がJICA(国際協力機構)の専門家派遣研修の講師を2010年代に数年つとめた時、「人間の安全保障」という概念がJICA(緒方貞子理事長)の方針の中に銘記されていたことを思いだした。これは緒方貞子が世界に向けて提唱し、山本正が尽力して日本の方針となったのである。こういう人が国際交流が日本の生きる道であり、それに生涯を捧げようという大志をもって、戦後世界を疾走したのだ。一人の人の力はやはり小さくない。そういった先達の努力の上に今日の日本があると改めて感じ入った。

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