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「名言との対話」4月20日。丹羽文雄「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」

丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年明治37年〉11月22日 - 2005年平成17年〉4月20日)は、日本小説家  昭和を代表する作家の一人。

三重県出身。浄土真宗高田派の寺に生まれる。早稲田大学卒。1932年に「鮎」でみとめられ,風俗小説を多作する。女性の愛憎描写にすぐれた。のち仏教への傾斜し1969年に「親鸞」(仏教伝道文化賞)、1982年に「蓮如」(野間文芸賞)を発表する。作品はほかに「厭がらせの年齢」、「蛇と鳩」(野間文芸賞)、「顔」(毎日芸術賞)、「一路」(読売文学賞)などがある。日本文芸家協会理事長。日本芸術院会員。1977年に年文化功労者文化勲章

母は4歳の時に旅役者の後を追って出奔。養子であった父は義母と男女関係にあった。また、銀座のホステスをして養ってもらっていた妻の50人近い関係を持った男性のリストを発見している。

こういう境遇を知ると、「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」。「親鸞にとっては、悪人というのは人間ということの別のいい方だ。世間ふうの人間らしい欲望をもち、人間らしい欲望をすてきれないひとのことをいっているのだ」という言葉に納得する。それは夜の世界を描いた「クラブもの」、そして「親鸞」、「蓮如」に結実していく。

日中戦争時代は。日本文学報告会の前身の「ペン部隊」、大東亜戦争では海軍の報道班員となった。戦後は同人誌『文学者』を主宰し、また日本文芸協会理事長を永くつとめ、文壇の大御所となった。吉村昭津村節子夫妻の師匠は丹羽文雄であり、河野多恵子は「文学者の同人である。近藤啓太郎という一人の作家の誕生には師である丹羽の存在が大きかった。すさまじいエネルギーと思い切りのいい強烈な言動の平林たい子は、「私は生きる」という言葉を好んで使ったが、記念碑にはたい子にふさわしい言葉として丹羽文雄を選んだこのこの言葉が刻んである。丹羽文雄は多くの文学者を育て、ついには文壇の大御所となった。

丹羽文雄はゴルフの名手だった。本人は「文学に淫したと同じくらいゴルフにも淫した」というほどのめり込んでいる。作家は坐っている時間が長いから、気分転換と体力維持このゴルフに狂ったことで長寿に恵まれたのだろう。

1985年には81歳でエージシュートを達成している。読売GCを40・41ノ81で回った。これは文壇では初の快挙だった。丹羽は世話好きでもあったようで、文壇にゴルフを広めている。柴田練三郎、源氏鶏太が教えを乞うたところから端を発し、そのころの第一線の作家達が勢ぞろいして、丹羽家を訪れゴルフスクールの様相を呈したり、コンペを催したりして一大文壇交流の場として世間に広まった。「丹羽学校」と呼ばれた。

三好徹『文壇ゴルフ覚え書き』によれば、小説家が主役の文壇でゴルフをやる人がゴルフを始める年齢は割と高い。それは文壇に確たる地位を確立す年齢が高いことに起因している。最初から小説を書いて食っている人は少なく、何らかの職業を持ちながら二足のわらじを履いている人が多く、筆一本で立てるようになたっときは年齢が高くなっているのだ。丹羽文雄は50歳から始めている。
ちなみに文壇ゴルフの入会資格は、技術拙劣、品性高潔。石原慎太郎がそれを聞いて、石原慎太郎は「それじゃ、僕は資格がないな」」といって入らなかったそうだ。どちらの資格にひっかかったか、二通りの説がある。おそらく、「品性」の方だろう。

2006年9月に、文芸春秋10月臨時号を眺めていたら、白洲次郎のページに興味深いデータを見つけた。1960年8月に軽井沢で行われた吉川英治夫妻誕生祝いゴルフ会のときの、11人の著名人のスコア表が貼ってあった。吉川英治はハンディ24、池島新平26、柴田錬三郎21、角川源義21、大岡昇平15、広岡知男15、、、、。シングルは丹羽文雄などは3人いて、丹羽文雄6、そして白洲次郎と並んで石川達三はハンディ3のローシングルプレイヤーだった。

同年生まれの船橋聖一とは、自他ともに認めるライバルであり、野間文芸賞文化功労者などで競っている。71歳で亡くなった船橋だが、丹羽はそれから30年近く生きて100歳のセンテナリアンとなった。その代価だろうか、晩年に認知症を発病している。

丹羽文雄には「一文のセンテンスは最長でも40字までを限度とせよ」などの小説を書くための技術に関する言葉もあるが、「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」を採ることにしよう。丹羽文雄の家族たちの生きざまを見つめた人間観だろう。その人間観が、すべてを許す親鸞に向かわせたのだ。それは実家の浄土真宗の寺へ戻るまわり道だったのだ。



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