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読みの多様性

 文学作品は、一つ一つの文字の層、文字を組み合わせた単語の層、語句を組み合わせた文の層、文を組み合わせた文章あるいは作品全体の層というような多様な層によって、成り立っていると思います。そして、層によって、読者の理解・解釈・受け止め方・反応の仕方の多様性の度合いが異なると思います。

 例えば、「戦争」は戦争であり、「平和」は平和であって、その理解・解釈の、読者間の共通性はかなり大きく、差異性は比較的小さいと考えられます。

 それに対して、「戦争と平和」という小説になると、その理解・解釈の読者間の差異性が極めて高くなると思います。どう受け止めるか、どう反応するかは読者間で大きく異なり、場合によっては正反対の読み方が生まれても不思議はない、と、私は考えます。

 それは成人用の作品だけでなく、例えば、新美南吉の「赤い蝋燭」、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」、アンデルセンの「はだかのおうさま」など、子供向けの作品でも同様のことが言えると思います。

 それを指摘したのが芦田恵之助の「自己を読む」論だと、私は受け止めています。

 だから、学校の授業の場では、作品をどう受け止めるかについては、それを「問い」にしたり、議論の話題にしたりしないほうがよいと思います。

 生活の中の読書は自由なのに、授業の中の読書が不自由なのはなぜでしょう?

 作品をどう受け止めるかの語り合いは、読書会のような自由な場で、互いの思いを聞き合うだけにするのがよいと思います。その読書会では、話さない自由、聞かない自由も保障したいです。そういう自由な雰囲気の中でこそ、文学を楽しむことができるのだと思います。

 作品をどう受け止めるかを議論して、その勝ち負けを競うようなことはしないほうがよいと思います。

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