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台湾を統一したのは日本?

台湾の歴史を勉強すると、台湾では17世紀に漢民族の入植が始まり、1624年から1662年までがオランダ統治時代。その後明鄭の時代、清朝の時代と経過して日本統治時代が始まると学びます。この様に文字で読むと台湾の土地を全体として統治した政権が順番に交代したというイメージを持ちますが、実際は全くそのような状態ではありませんでした。

下記はWikipediaの台湾史の紹介です。


先史時代、16世紀まで

台湾の原住民は、太平洋に展開したポリネシア系の民族の先祖と考えられています。太平洋に展開した民族は、台湾をステップボードとして太平洋に発展していったというのが最近の民族学の見解です。そして台湾内では20もの部族に分かれ、それぞれが王朝を立ててそれぞれに各地域を支配していました。日本の戦国時代のように、分裂した統治が行われた時代です。


オーストロネシア族の発展


台湾の原住民族

オランダ統治時代

1624年、オランダは台南に拠点を設け台湾の統治を始めますが、その範囲は海から到達できる範囲を主に台湾南部に集中しています。また、台湾北部の地は当初スペインによる統治が行われ、後にオランダの手に落ちますが、これも一部の範囲にとどまっています。
オランダによる台湾統治というのは台湾島の一部でしかありませんでした。その他の地では、原住民の王朝による統治が続いていました。

オランダ統治時代の台湾地図

原住民の王朝

上記の地図には大肚王國という記載があります。この彰化の辺りを拠点に栄えた原住民の王朝は、オランダ人とのかかわりが深かったために、オランダの歴史資料に詳細な記事が残っており、そのためにこの様に書かれているわけです。
それ以外にも、台湾南部のスカロ王国、台湾北部のケタガラン王国などがオランダの記録に残っています。
しかし、これらはみな海からのアクセスが容易で、オランダ人が認識をした王朝のみに限られていると思われます。山の奥に入るとオランダ人も入植してきた漢民族にも未知の、原住民の世界が残っていました。

明鄭の時代

明鄭の時代、この王朝の統治領域は当初のオランダの統治範囲を踏まえ、西側沿岸部でこれをさらに発展させていきました。しかし、王朝後期には三藩の乱に乗じた中国本土への動きを強め台湾の統治はおろそかになります。そして清朝により征服されてしまいます。
明鄭の時代、この王朝の統治範囲はオランダ時代と大差なかったと考えられます。

清朝の統治時代

清朝統治の時代、原住民は平埔族と高山族とに分けて認識されていました。そして、平埔族と閩南人や客家人との混血が進み、平埔族は中国人の中に同化してしまったと一般的には言われています。そして、台湾の西海岸側はおおむね清朝の統治範囲となりました。

そして山地と東海岸には原住民の世界が残っていました。清朝はこれらの原住民の支配している土地を”化外の地”と呼び、自らの統治する土地ではないと宣言しています。清朝の時代でも台湾島の統治は部分的であったということです。

フランス人の記した清朝の統治した台湾の範囲

「蘇卡羅」で表現された1860年代の台湾

2021年に台湾で公開されたテレビドラマに「蘇卡羅(スカロ)」という作品があります。これは清朝時代の末期に起こった、アメリカと原住民の闘争を描いています。アメリカが対するのは清朝ではなくスカロと呼ばれる原住民の民族集団なのです。清朝は事件の起こった恆春半島は化外の地なので、この問題には関知しないと言ってアメリカからのクレームを受け付けません。そのため、アメリカの軍隊は直接恆春半島に上陸し軍事活動を発動、スカロ族との戦闘を行い、交渉を始めます。

このドラマで描かれた台湾の様子はとても興味深いものでした。台南を中心とする閩南人を中心とする漢民族の支配地、その外側には客家人の居住地、そのさらに外側には客家人と原住民の混血の人々が生活するエリアがあります。そしてその先に原住民の世界との結界があるのです。そこは異民族の支配する異界であるというイメージで表現されています。それはまるでアバターの世界に入るような印象です。
この様に表現された台湾島のイメージはとても鮮烈でした。1867年という時点で台湾には、清朝の統治するエリアの外側に、原住民の自ら統治する世界が大きく残っていたということです。

清朝末期の高山族征伐

上記のアメリカと台湾の原住民の抗争を傍らで見ていた清朝は、台湾の統治が中途半端な状態にあることに危機感を覚え、台湾島全土を支配下に収めようと考えます。その手始めに、宜蘭に向かい、東海岸への影響力を深めます。その軍事行動を記念する記念碑が、草嶺古道に虎子碑として残っています。

そして、清朝の最末期、この高山族に対する軍事行動が起こされた時点で、清朝の台湾に対する統治が終わってしまいます。

日本統治時代の原住民との闘い

日清戦争の結果、台湾に日本の軍隊が入ってくるのは1895年のことです。この時点で台湾は上記の様な状態でした。清朝は決して台湾全土を統治していたわけではありません。日本は統一された台湾を清朝から引き継いだわけではないということです。

日本の軍隊の台湾に対する征服戦争は一旦、この清朝の統治エリアに対して行われます。基隆と澎湖島から台南に上陸した軍隊がそれぞれ南進と北進を進め、彰化のあたりで合流しこの戦闘を終えます。この時点で漢民族は台湾民主国を成立させ、清朝とは別の政権としてこの抗争を進めます。しかし、この抗争は半年足らずで終わってしまいます。

1895年の日本軍による台湾征服戦争はこのような内容のものでした。そうであれば、その時点で、原住民の世界はあくまでも彼らが自主的に統治する土地として自立的に存在していたと考えられます。

日本統治時代、原住民は”生番”と”熟番”とに分けて認識されていました。このうち熟番というのは、日本政府からするとまつろわぬ原住民という理解だったのでしょうが、これを原住民側からみると、日本人は独立した自分たちの世界に勝手にやってきた、異民族だったのではなかったでしょうか。

映画”セデック・パレ”で描かれた原住民部落の様子では、部落の中で警察官が孤立したような状態でした。これはもしかすると、日本統治時代初期ではただの孤立よりもっと不安定な状態だったのかもしれません。原住民の側では日本人に統治されるという状況を全く理解していない可能性があります。清朝の時代では独立した状態であった高山族が、どの時点で日本の統治を受け入れることになったのか。仮に治安維持のために警察官が派遣されたとしても、その意味を全く理解していなかったのではないでしょうか。そのことを考えると日本人に対して反抗的な行動にでるのもむべなるかなと思います。

台湾島の統一

1895年の台湾占領のための戦争が終わっても、様々な形で日本に対する武力闘争は続きます。これは日本人から見るとまつろわぬ生番たちの反乱なのでしょうが、原住民の側から見ると自らの独立を全うするための、止むに止まれぬ戦いだったのでしょう。
この独立維持のための戦いは1917年まで継続的に行われます。そしていったん抗争の運動は治りますが、1930年に霧社事件として日本人への不満が爆発してしまいます。
そして、そのような経過を経てようやく原住民が日本の統治に服従していくことになるわけです。

こう考えてくると台湾の土地を一つの政権が統一的にまとめたというのは、日本の統治時代、それも植民地になってから20年以上も経ってからと考えるのが妥当なのだと、僕はそのように考えています。


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