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【明清交代人物録】鄭芝龍(その八)

この様にして、鄭芝龍は東シナ海の覇者となりました。ここで、鄭家軍の支配する交易の内容と組織がどの様なものであったのか、彼らにはどのようなノウハウがあったのかを見てみましょう。


海外と国内のネットワーク

この時代に福建人、特に閩南人と呼ばれる泉州と漳州の人たちの海外進出が進んでいます。後に華僑となる人達は、ほとんどがこの閩南人の末裔です。鄭芝龍の海外交易拠点もこの華僑の進出した土地と一致しています。
具体的には、現代の国で行くとインドネシア、タイ、マレーシア、タイ、フィリピンなどです(本来は都市ベースで説明するのが適当なのですが、煩雑になるので簡略化します)。日本では平戸と長崎に拠点を持っていますし、遠くはインドとも交易を行っていたそうです。
これを海路五商(仁、義、禮、智、信)と名付けた海外ネットワークとしていました。

国内では、鄭家軍の根拠地を福建安海と定め、交易は産業の中心地杭州を中心として、中国国内へのネットワークを張り巡らしていました。当時の交易品が絹織物や陶器であったことを考えると、主に江南地域、福建省を商品の供給基地としていたのでしょう。

福建勢力の掌握

もう一つ大きいことは、それまで福建では各都市の勢力がそれぞれに頭角を表すべく相競っていたものが、鄭家軍の元に統合されたということです。それまでは、小さな勢力で争いが絶えず、東シナ海の制海権を得ることは実現できませんでした。それがようやく勢力を一本化出来たことで、この海域を勢力下に収めることができたのです。
そして、これが東アジアの大国、中国と日本の交易を実現する黄金ルートであったわけです。タイオワンで日本との交易を続けるオランダ人も、鄭家軍の影響下で商売をするしかなくなっています。

組織

鄭家軍のスタッフィングは、あくまで地縁関係者のみで構成されていたようです。鄭芝龍の4人の兄弟、継母黃氏、甥の鄭泰、親戚である施福など、名前の残っている人物はほとんど、泉州の出身です。
この地縁集団のみで構成されているということは、この地域の特徴である、方言が細分化されているということとも関係があるように思います。福建の方言というのは地域による差異が大きく、山を超えるともう通じないと言われているものです。この方言の通じる仲間であれば、腹を割って話のできる、信頼のできる仲間という意識になるのでしょう。そして、逆にそれが鄭家軍の組織を全国的なものにするには足枷となったのではないかと考えています。
中国で王朝を作るような集団は、成長の過程で外部の勢力を積極的に取り込むようなフェーズを経ています。そのようでないと、中国の全土津々浦々を支配する勢力にはなり得ません。その点鄭家軍は小さく、福建の領域だけしか治めていないように見受けられます。これは、海を支配する意識が強いからなのか、それともこのような福建の文化/言葉の特異性によるものなのか、その辺は想像の域を出ません。
後に鄭成功の時代になって、南明の各地の勢力と協力できるという局面もあるのですが、その時も積極的な協力体制は取ることができず、各個撃破されるという経過をたどります。

その他のソフトウェアとハードウェア

その他、いくつかの書籍から読み取った、鄭家軍の持っていたノウハウをピックアップしておきます。

【地図】
鄭芝龍の作ったと言われる東シナ海から東南アジア海域にかけての地図というのが存在しています。これは、既に中国的な主観的な地図ではなく、ヨーロッパの科学的な地図制作の知識を踏まえているものです。
鄭芝龍はオランダ人の元で働いていたこともあり、そこでこのような地図を目にしていても不思議ではありません。オランダは、この時代地図の作成技術では世界一です。ですので、何らかの形でオランダからその技術を学んで、自らのために地図を作った。あるいはオランダの地図をそのままコピーして中国語バージョンに変換したのかもしれません。
いずれにしろ、正確な海の地図を有することは、海上で勢力を広げ制海権を得るという野望を実現するのに、また交易を合理的に行うために役に立ったに違いありません。

【言葉】
鄭芝龍は多くの言葉を操ることができたと言われています。しかし、僕はそれは限度があるのではないかと考えています。母語としての閩南語は話せても、中国語の共通語は彼は学ぶ機会はなかったのではないでしょうか。マカオに長くいたのであれば、ポルトガル語はマスターしていたかもしれません。そうであればスペイン人やオランダ人とは、ポルトガル語を使って話すことができたのでしょう。オランダはこの時点でスペインからの独立戦争の最中ですので、宗主国であるスペインの言葉は皆話せたはずです。ポルトガル語ができればスペイン人とも話はできたでしょう。日本での滞在期間は非常に短いので、日本語ができたとは考えづらいです。日本人妻がいたので、少しは話せたかもしれません。
とは言え、この海域で閩南語とポルトガル語を話すことができれば、交易の交渉には困らなかったはずです。

【地域の情報】
彼はその成長する過程で、故郷の福建泉州、マカオ、マニラ、平戸、台湾の地を実際に見ています。この時代、このような経験を有している人間はそう多くはありません。彼は偶然なのか意識的になのか、これらの地で仕事を行っています。そこから得られた知見は、交易を進める上で役に立っているに違いありません。

【船】
この時代のオランダの船は、世界で最も巨大で遠海航行に適している、進んだものでした。それはヨーロッパの北海でのニシン漁業の経験から発展したもので、この荒い海でキチンと操業できるようにと開発されたのだそうです。そのような最新鋭の大型帆船を実際に見た鄭芝龍は、そこから中国のジャンク船を改良するアイデアを盗んでいたのかもしれないと、これは僕の想像です。
少なくとも、鄭芝龍が料羅灣の海戦でオランダ船を恐れなかった理由の一つは、彼らの船を実地に見ていたということが大きいと思います。オランダ船は、大きいといっても木造船でしかなく、火には弱い。この点を集中的に攻撃することで、鄭家軍は勝利を収めています。

また、料羅灣の戦いでは、オランダ軍がいくら中国側の艦船を焼き払っても、すぐに鄭家軍は船団を再建しています。オランダの船は増やすことがそう簡単ではないので、この造船能力に負けたという面もあります。福建省は山がちな地形のため、どの都市でも後背地に森林を持ちます。そして福建全土を支配していたということは、この造船能力の面で非常に有利であったのだろうと考えています。
後に鄭家軍は台湾に移るわけですが、その段階で、この造船基地を失ってしまいます。そうすると時間が経てば経つほど船の補給が間に合わず、先細りとなってしまう。そのような経過をたどります。

【火器】
鄭家軍の船では、オランダとの戦いに先立ち、イギリスから大砲を購入しています。この時代カトリックの宣教師が明王朝に入り、西洋の大砲の技術を教えて満州族に対抗したという史実があります。鄭家軍はキリスト教徒とは比較的近しい関係を有していますが、それはあくまで宗教を主とした精神的な関係で、武器購入は別ルートで行っているようですね。
料羅灣の戦いでは、火船による突撃戦法に合わせ、大砲による砲撃も行われています。オランダ軍には、それによる損害も少なからずあったようです。

このような多方面での知識と技術が相まって、鄭家軍の東シナ海制覇が実現し、この海域での交易を牛耳ることができたのだと僕は考えています。





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