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脱コミュニティ思考に関する考察

何かを成すことを考える時にいつも念頭にあるのは「憧れ」をいかに自分の強みの部分と統合していけば良いだろうか、ということ。

今回は「脱コミュニティ」という時代の流れに逆行するような考察を、私のこれまでの課題や葛藤を交える形で、「憧れと強み」という軸をベースにお伝えできればと考えている。

仲間への憧れのはじまり

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まず最初にどこから話せばいいか悩むところだが、昔から「仲間」への憧れがあった、というところから話を進めたいと思う。

自己分析のワークなどを通して過去にもっとも印象に残っている体験を掘り起こすと、自分にとって鍵となる重要なできごとが「生徒会役員の活動」をしていた中学時代にさかのぼる。

どちらが時期的に先なのかはよく覚えていないが、矢沢あいさんの代表作のひとつである『天使なんかじゃない』を妹が読んでいたのを借りて夢中になっていたことがある(最近もとある旅館施設で読み放題で貸し出されていたので読み返したばかり)。

一言でそれがどう良かったのかを表現するのは難しいのだけれど、強いて言うならば「仲間との絆」を強く感じさせてくれる作品なのだと思う。少女マンガなのでそこに恋愛要素もかなり入ってくるが、それもどちらかというと人間同士の根底にある「欲」を美しく打ち出しているような感じがある。

あ、そういえば今回の記事は「欲」というのもキーワードだ。

そしてこれはマンガの世界だけでなく、自分がリアルに中学時代に体験した「生徒会活動」でも似たような出来事が重なっていて、やっぱり仲間っていいな、という感覚を自分の中に深く刻み込んだように思う。

なぜそこまで思い入れがあるのか昔を振り返ってみると、おそらく中学1年生の時に仲のいい友だちがクラスの中にできなくて、遠足のバスでとなりに友だちではなく先生が代わりに座ってくれるような状況にあった劣等感や、サッカー部に所属するも圧倒的に劣等生で、部活の時間が苦痛でしかなかったというのも相まってのことかもしれない。

初年度の生徒会活動そのものに楽しい要素はなかったが、やるべきことを学校の代表としてミッションを果たしていくという行為に居場所を感じていたのかもしれない。

クラスにも部活にも居場所がなかった自分が、生徒会の中でだけは役割を持つことができたのが嬉しかったのかもしれないし、これが二年次、三年次になると自分たちが学校行事の企画立案から実行までを任されるようになり高揚感も増していった。

そして忘れてならないのがゲーム『ドラゴンクエスト』の存在。仲間と共にに世界を救うというシンプルなストーリーの中に描かれる人間模様に幾度となく感嘆し、いつか自分も仲間と一緒に冒険がしたいなと何度思ったことか。

それが現在の「仲間と一緒にビジネスで面白いことをやりたい!」という願望や憧れにつながっていったのだと思う。中学時代の生徒会活動がその疑似体験であったこともまた、自分の中で大きくリンクする点なんだと思う。

さて、このあたりで本題に入りたいと思う。

仲間やコミュニティをあきらめた

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最近、たまたま米津玄師のインタビュー記事か何かで「人と何かをやることが絶望的にヘタだった」というのを見かけた。

バンドはずっとやりたかったんですよ。自分の原体験がバンドだったから。バンドを組んで、4~5人で何かを表現するっていうことに対して憧れはずっと持ち続けていて。でも何度かバンドを組もうとしたんですけど、あんまりうまくいかなくて。プロデュースはできるんですけれど、それをメンバーに伝える方法がよくわかんなかったですね。そもそもバンドって複数人で何かを作る存在じゃないですか。そうなった時に……人と一緒にいるっていうことに対して、そもそもそんなに楽しいと思えなかったというか(笑)

ざっくりいうと上記のような内容だったわけだが、これに対しての私の共感度がハンパじゃなかった。同じ感覚を持っている人がほかにもいたのかという安堵感のようなものでもあったのかもしれない。

私も人との共同作業やコミュニティ、チームや仲間と何かを成し遂げていくということに対して大きな憧れがある。原体験が中学時代の生徒会活動やドラゴンクエストにあったから、いつかは自分も……という夢を持ち続けていたのかもしれない。

私が他人にも自分にもいつも考えるのは「憧れ」の立ち位置だ。

基本的に「憧れ」というのは現状の自分に "無い" から起きる現象であって、考えるべきは「なぜ今の私には "無い" のか?」ということだ。

これまでの経験則からだが、仮に今それがなくても将来的にそれが手に入るという確信がある時のそれは「憧れ」とは少し違うと思っている。少しだけ難しい表現をするならば、

「憧れというのは、自分が無意識的に遠ざけておきながら、欲しいと願っていることがら」

なのではなかろうか?

ポイントになるのは「無意識的に遠ざけている」という点。これについては、どんなに自己分析的なワークをしてもコーチングを受けたとしても発見するのは難しいことのひとつに分類されるのではと考えている。

この本当の意味での「憧れ」を自分が追いかけているのだとしたら、それは気づいた時点で即座に追うことを止め、再配置させなくてはいけないと考えている。

なぜかというと、無意識的に自分が遠ざけている原因をメンタルブロックの解除や心理ブレーキを外すことで解消しようとすると、自分の求めるべき「欲」から遠く離れたところで、しかも自分の先天的で継続的に強化している、潜在意識的な強みを活かさない方向へと物事を進めてしまう可能性があるから。

(……と、現在は仮説を置いている)。これは少し難しい問題だ。

先の米津玄師の話を例に挙げるのであれば、バンド活動への憧れを達成するために死力を尽くしていたら、もしかすると現在の成功は手にしていなかったかもしれない。仮にバンド活動がうまくいったとしてそこに「本質的な幸せ」があるのかというと疑問だ。

そう考えた時に私にとっての「仲間」や「コミュニティ」という概念は、単純に原体験と紐づかれてしまった憧れが起因しているだけであって、そこにフォーカスを当てることは自分にとっての「本質的な幸せ」や、その道しるべとなる「欲」を霞ませてしまうことになりかねない。

つまり私は憧れを切り離し、「本質的な幸せ」へと直結する「欲」がどこにあるのかを先に考察しなければいけない、ということになる。

欲は「本質的な幸せ」を得るための道しるべ

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ここからさらに抽象度をあげてしまうとより訳が分からなくなってしまうので、少しだけ具体的な話をしたいと思う。

私は「コミュニティ」がやっぱり苦手だし、運営しようと思ってもうまくいかない。嫌いというわけじゃないけれど無意識に遠ざけている。

こういう話をすると一部の未熟なスピリチュアリストやカウンセラーたちが「メンタルブロックを解除しましょう」だとか「ブレーキ外しをしましょう」なんて言い出すからうんざりするのだけれど、今回について私が考えているのは、

「得たい欲がほかにあって、それが本質的な幸せへと導くと知っているから、憧れなんかの影響で遠回りしてる場合じゃない」という解釈。

じゃあそれはどんな「欲」なのかというと、

「片思いの距離感で、会いたい人に会って、知覚を広げ統合し伝えたい」

ということ。

これまでの無意識的な行動を観察すればするほど、そこを無性に求めている自分がいることに気づかされる。

会いたい人との片思いの距離感

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それには2つ理由があって、自分の領域に不純物を一切いれたくないというこだわりと、本当に心を開きたい人に対して心を開いてしまったあとの達成感の儚さ、と表現していいと思う。

基本的に私は

「考察と体系化と研究発表」を生涯を通してやり抜いていきたい関心ごとなのだと思う。だから目指すところは「思想家」で、自分の発信そのもので暮らしていけたらとても居心地が良いのだろうなと思う。

そういうわけで、不純物をいれたくないという表現は多少失礼だが、自分の考察にあてる時間や体系化にあてる時間をできるだけ確保したい、という言いかたをすればやわらかく伝わるだろうか。

二番目の達成感に対する儚さというのは、どちらかというと「片思いシンドローム」的な話で、なんとなくだけど男性本能に備わっている「ハント」のそれと近いと思う。

きっとこれが男女関係に作用させたくなる人は浮気や不倫みたいなことを繰り返すのかもしれない。自分の場合はそんなものよりも、その人の中にある思想や哲学に興味がある。

だからこそ少し距離のある立場で、その思想や哲学を、少し美化される距離感で触れていたいし、その方が自分の考察や体系化に関するインスピレーションに大きく作用するのだと思う。

ただどうしても一定のコミュニケーションを進めていくと私の中にその思想や哲学は統合され、組織化していく。そうなると私の「欲」は次に向かい、次のハントの対象となる「人」「環境」「ステージ」を追うようになる。

ちなみに、無欲への欲ほど「欲レベル」が高いものもないなと思うところもあり、そういった状態の方々に対しては私はまだまだ距離を置くステージにあるようで、まだちょっと理解はできないでいる。

何はともあれ、私は「欲」をもっと追って「本質的な幸せ」を持続的に感じるためには早い段階で「憧れ」の影響化から離れるべきだと思うように至ったのだ。

これが、仲間をあきらめ、コミュニティをあきらめた私の経緯だ。

SNS時代は人とつながりすぎている

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人には「つながりのキャパ」があるように思う。ポール・アダムスの研究によると、強い絆でつながれる人数は「親友」「相談相手」「癒し手」の20人までとされている。

私の場合はこのキャパシティがもっと狭くて、強い絆でつながり続けるのはせいぜい4~5人で、結局は自分の家族とのつながりでそれが全部もっていかれてしまう感覚がある。

仲間やコミュニティに対する「憧れ」の指し示す影響と自分の「欲」や「本質的な幸せ」に大きくズレがあり、かつ「つながりのキャパ」が極端に弱い自分の場合は、もっと「欲」に素直になるべきだと思う。

単純に私は「片思いの距離感」でもっともっとたくさんの人と会いたいし、その人とのコミュニケーションを通して思想や哲学をインストールして統合し発信していきたい。

そのためにも自分をもっと活かしていくことも大切になる。

会いたい人とコミュニケーションを取れる自分になるための、強みをベースにした能力開発をする必要がある。仮に会いたい人が総理大臣だったとして、対等にコミュニケーションを取り思想や哲学をインストールするには並大抵の努力では叶わない。

そういったことを踏まえ、急に具体的だけれど、2019年の第四四半期をより気持ちよく迎えるためにも、Webに関するマーケティングディレクションやSNSのアカウント運用、エンゲージメントを加速させるライティングやPR運用、事業コアをメッセージとして伝えるブランドジャーナリズムのメソッドをさらに強化して、既存取引会社様をいかに勝たせるか。

そこに注力していくことが自分の「欲」や「本質的な幸せ」にダイレクトにつながっていくと確信。「憧れ」はいつも自分の深いところを紐解いてくれる面白いツールだ。

もしこれを読んでいるあなたも、仲間やコミュニティに対して憧れがあるものの、何をどうやってもうまくいかないと悩んでいるとしたら、自分が無意識に遠ざけているものを特定するところから始めてみると面白い発見があるのではないかと思う。

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