『スワロウテイル』2019.10.15


あざとい針で刺されるような衝撃を、彼女と出会ったときに受けた。彼女は草むらで寝そべっていた。乾いた青空の下、その美術大学の校庭には誰もいない。彼女を除いて。
膝が細く、付け根が太い彼女の足の内腿に、蝶々が飛んでいる。なんとなく、僕は思い出してしまった。昔、蝶々の標本を作るのが趣味だったこと。そしてある女友達に気持ち悪がられて、その趣味をやめたこと。
彼女は、うっすらと瞼を開ける。
どうでもいいことだ、と思った。過去は今に勝らない、勝ってはならない。それが自論で、些細なきっかけで些細なフラッシュバックが起きるたびに、論理で記憶を押しこめてきた。
目の前の脚に飛ぶこの蝶々は、僕の過去とはなんら関係がない。もちろん彼女自身も。赤の他人だ。
「これ、気になる?」
おっとりとした声に、僕は彼女の顔へ視線を移す。眠たそうな目に、派手な付けまつげがついていて、バサバサと羽ばたくみたいに瞬きをする。決して美人ではない、と思う。けれど彼女は、まるで自分が極めて美しいかのように、流し目で僕をみた。
「きみ、見てたよね?」
「見える位置にあったもので」
「いいよ。見せるために、彫ってるんだから」
彼女は内腿を、蝶々の翅を指先でなぞりながら、するりと撫でた。爪が長く、スワロフスキーがたくさん付いている。彼女が動くたび、キツい香水の匂いがする。
「でもね、わたしは蜘蛛じゃないのよ」
「どういう意味ですか」
僕は顔をしかめてしまった。美術大学に入学したとき、変な奴が多いだろうと覚悟した。けれど実際はそうでもなく、案外正常な奴が多いと感じた。ところが、今になってそうでもなくもない、と、混乱させられている。彼女のせいで。
「わたしは、待つより捕まりたい」
彼女はもう一度、内腿に飼う蝶々を指先で撫でて、は、とため息をついた。白い歯が、血色を滲ませた薄い唇から覗いた。上目遣いで僕を見て、くすりと笑い、
「なんてね。ポエムなんてさっぱり興味ないのにな」
と物悲しげな表情をした。
何と返せば良いのかわからない僕の隣を、立ち上がった露出の多い彼女が歩き抜けていく。濃い香水の匂いが僕を襲う。意識が遠のいて、ふわりとした感覚になる。あぁ、フラッシュバック。けれど彼女が、僕の肩を掴んだ。
「ねえ。遅刻するわよ」
校舎にある時計を見ると、休み時間はあと五分だった。彼女は行ってしまって、すぐに姿が見えなくなった。お互い、名前も聞かなかった。僕も歩き出す。何事もなかったかのように。どうしてか重大な何かを、逃してしまったような気がした。


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