『金木犀』2019.10.14



鈴虫の鳴き声、黄昏の包む夕暮れの吐息が冷えた。あの人は自転車をひいて、わたしの隣にいる。駅前の大通りを抜けていく。裏通りの公園には、タイヤ跡を追う学校の友達、家族と湯の沸く火のついていないストーブが音を鳴らして、わたし。木々に混ざる塾帰りの暗記がまだ、窓から吹き込む淡い香りを身体に染み込ませた食パンを頬張る朝に膨らむ。まだマフラーはいらない、と手を振った。ひび割れた硝子の空気を吸う受験日の、手を繋いだ二人の未来。せんぱいたち。食べていない冷蔵庫のケーキ、二階に向けて声をかける弟が覗く画面に、黄色がある。菓子パンについてきたシールを壁に貼っていく、祖父がくれたお小遣いを、大好きな全てに使いきった。空から手紙が降る、はしごをのぼる夢を見る。帰宅途中の畑に、白い植物が風に吹かれて、歩くたび悲しみに淡く黄色いジャムを塗る、先の丸いバターナイフを拭き取る。夕暮れを見ているとき、あのアーティストが死んだのを知った。文庫本に擦り込む香り。忘れられることなんて、案外無いのだと、教える。秋は初めに向いていないから、長い髪を切らずに香らせて混ざる夕の、一人で聴いた両耳のギター。片耳ずつ。憧れが死んでいく毎日は、大人にしてくれる。甘さが撫で、伸びる影に手を振り合う、一人をやめた正解。赤丸と、満点を両手で持ち上げた日々には戻れない。隣で笑う、この人と歩く夕暮れの、金木犀の甘い香りに、僕は過去をしまってアルバムに閉じ込めることにした。この人と歩く世界に、ぼくは。


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