内なる自分の声

忘れかけていた、昔の自分の、長い間苛まれていた想いを久しぶりに思い出すことがあった。

『何をしていても傷ついてしまうのはなぜだろう、ただ生きているだけなのに毎瞬毎瞬が苦しい…』
『まるでバグのような離人感。私は本当は生まれる予定ではなかったのでは?』
『消えてなくなりたい。自分で死を選択することさえだれかの迷惑になるのなら、最初から存在しなければよかった』
最後のは、思ってからいつも、少し楽になったあと涙が出てきたのだけど、
そのわけが今ならわかる。
私は自分のイマジネーションをフルに使ってかなりの臨場感のツラい現実を作り上げていたらしい。しかしそれは、気力が底を尽き、なす術のなかった当時の自分が必死で悩み抜いた末の結論でもあったのだけど、にしても、自分に対してなんという酷い仕打ちだろうか。。

アダルトチャイルドの回復のキーワードとして出てくる『インナーチャイルド』のような、心理学でいう『無意識』のような、ヨガでいう『真我』のような、スピリチュアルでいう『ハイヤーセルフ』のような、そういう『内側の自分』に実際はじめてちゃんと意識を向け(ざるを得なくなっ)たのは2年前だったと思う。その『内側の自分』の存在は、今ではすっかり私のなかで所与のものになった。
そんな感覚をもつ今、冒頭に挙げた思考群をもう一度眺めてみると『内側の自分』の全否定具合に驚愕する(最後には泣いてさえいるにも拘らず、それすら『何泣いてんの』と自分で自分を軽蔑していた)。これぞまさにセルフメンタルDV。。

今の私はというと、よく宇宙のことを考えてにやにやしたり、ISSからの映像やロケット打ち上げの映像を観て感動で泣いたりしている。
日々根拠のない安心感を持って暮らしていて、しかもだいたい毎日なんか嬉しいし楽しい。

こんな現実がやってくるなど、『罪悪感と疎外感の暗くて長いトンネルにおり自死を選ぶ力すらないほどにヘトヘトで、自分の欠陥と一生付き合っていくしかないのだろうと諦め絶望していた』十代の自分からすれば、
いや、『自信がうまく持てずいつも焦燥感にかられ、未来を描けずぼんやりとした不安を抱えていた』数年前までの(わりと最近の)自分から見ても、想像できないし信じられなかったと思う。

直面した壁はなるべく正面から越えようとするほうだった。しなやかになりたいと思っていたけれど、(それはつまり)しなやかじゃないし不器用だったためで、よく、壁を越えられたけど自分が壊れたりだとか、融通がきかなくて越えられたかどうかもやっとしたままに終わったりしていた。今思えば、単純に『内側の自分』の声が聴けていたらしなやかでいられたし、もっとすんなりいったことやもっとすごいことになっていた案件が山ほどあったと思う。それでも経験のぶんだけ確実に心は豊かになるし、過不足なく過去があるからこの今があるので、ぜんぶそれでよかったのだけど。
2年前までは、そんな日頃の人とのやりとりや物事の決断において『内側の自分』の声をスルーすることが多かったわけだけど、
でも大きな流れで見ると、違う意味で不器用だったからこそ結局自分が自分でいられる音楽をやめられなかったし、ついにはそれしか殆どやらなくなっていったこと自体が『内側の自分』の望みに従ったからに他ならない。
結果的に、この1年半ほどは精神的にも現実的にも加速度的にものごとが展開しつながっていった。ゲームのステージが変わったような感じで面白い。
他方で人生が変わった有難い大きなターニングポイントも多すぎて記憶からこぼれ落ちてく勢い(メモしとくべきだった)。
『外側の自分』(自我?)が『内側の自分』を全肯定すると心が安定するのは自分に齟齬がなくなるから当然だと思うけど、内側の声を聴けるのが頼もしいことだとわかり始めると安心感が増すのだろう。直感もそこから来る。そしてものごとがうまい具合に進みはじめる。

“Have the courage to follow your heart and intuition. They somehow know what you truly want to become. Everything else is secondary.”(心と直感にしたがう勇気を持て。それはあなたが本当になりたいものが何なのかを知っている。それ以外は二の次でいい。) – Steve Jobs

そういうことなんだと思う。

あと、面白いのが、過去に作った曲たち。
思えば、日常生活で『内側の自分』の声にそれほど意識的でなくても、曲を作るときにはあまり頭で考えずしっくりくる音やフレーズを感覚で探す(つまり『外側の自分』ではなく『内側の自分』に意識を置いている)ことが多い。そのせいかときどき『もう一人の自分に話しかけている曲』を作っていたり、今になってよく見聞きするようになったキーワードや世界観を先取りするかのような内容のものがあったりする。
『惑星』という、自分がこの体を離れたあとのことを思って書いたたいせつな曲があって、今これの歌詞を思い返すと『地球に人間として生まれたひとの曲だなあ』と感慨深い。

惑星(2009)

僕はあの地平線で
息をするのを 辞めて
両手いっぱいの過剰な想いと
人間と繋いだ積もりの心など 棄てて
身体一杯の生命を空に還す

見上げる程高い向日葵よ
真っ直ぐな朽ち方が好き
ああ
やはり僕は
季節の円の中でしか生きられない

傷つかなくて良いよ
好意は報われるように
嘘をつけなくていいよ
幸せであってね

独り支配した積もりの
小宇宙も 壊して
大気いっぱい広がるシーンは
どれも一度きりのものばかり

何を択んだとて 所詮箱庭の中
この愛すべき箱庭の中

僕はあの地平線で
息をするのを 終えて
両手いっぱいの過剰な想いと
君と繋いだ積もりの心など 棄てて
身体一杯の生命を空に
僕はあの地平線まで 歩いて行かなくては
涙いっぱい
涙でいっぱいの惑星を 抱擁して

なんだか人生は、生まれ落ちて以来すっかり忘れていた『本当は知ってる』この世界のことを思い出して、新しい景色を知っていくゲームみたいだなと思う。

ありがとうございます!糧にさせていただきます。