私の芸術運動121沈黙のコミュニケーション
前回の記事では絵画とのコミュニケーションについて描きました。
これがなかなか奥が深いものでして、かと言って深く考えればいいというものでもなくて
もっとシンプルに!!
ごくごく普通のありふれたたわいもないもの!
として捉えればいいわけです。
その普通なものの中にいかに素晴らしいものがあるのかを知ればいいのです。
芸術を難しく捉える人は自分の人生に対しても同じように考えると思います
難しいから、才能がないから、時間がないから
裸の王様をみて裸だと思っても口に出せない人が多いです。笑
久しく私も個展はやっていないのですが、個展を毎年やっていたコロナ前
よく質問されたものです
どういう意味がこの絵に込められていますか?
私は逆にどの様に感じましたか?と聞きます
すると私は才能がないからわからないと言うのです。
これでは芸術の持つ本来のコミュニケーション能力が失われてしまいます
もちろん私の絵画がその人に何もコミュニケーションを投げかけなかったのかも知れません、それは私の力の至らぬところです
しかし私は自分の芸術には確かなコミュニケーション能力が備わっていると感じます
問題提議を促す様な絵画ではありません
もっとシンプルです
もはや沈黙に近いと考えています
コミュニケーションなのに沈黙?これは矛盾する話なのですが
そこが小説や詩とは違う、言葉にならないコミュニケーションだと私は考えます、それが絵画という芸術の結晶として目の前にあるわけです
それらは静寂のうちになされます。
言葉で定義されない以上、そこには言葉から解放された無限のコミュニケーションがあります、魂の交信に近いです
身近なもので表すとすれば
夜の海を眺める事や
河川敷で寝そべって空を見上げる事や
宇宙を眺めて想いを馳せる事や
一人で散歩する知らない街並みや
ふと思い出しす昔見た景色の事や
部屋でぼんやりとしている夕暮れ時なんかがまさに私の感覚的にはしっくり来ます。
それを私は絵画から感じますし、それをインスピレーションに絵画を作成しています
静寂のうちに行われる議事録の無いコミュニケーション
しかしそれは
「ごくごく普通のたわいも無いありふれた事」な訳です。
今までも何度も繰り返しこの言葉をこのブログでも書いてきましたが、まさにこれこそ!!と私は思うのです。
そして、それら全てに感謝せざるを得ません。
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