見出し画像

【小説】ハシッコから釣り糸垂らして。

地球はその昔、平らだった。ボクらにとっては今も真っ平らだ。
 
――――――

 魚の形をした雲が自由に泳いでいた。いいなぁ、君はそのまま泳いでどこにいくのかな。滝から別世界へ旅立ってしまうの?
 頼むよ、ボクも連れていってよ。約束ね…。

 川沿いの土手に寝っ転がり、ボクとキミの頭上を泳いでいた魚はみるみるうちに積乱雲に合流して、数十分後にはボクらをめった打ちに濡らした。「話が違うよな。」と顔を見合わせながら家路を急いだ。そして翌日には、見えない雨でずぶ濡れになるのだった。

 5限目の算数の時間は、正直上の空だった。教室から見える新幹線が気になっていたわけじゃない。新幹線がこのまま走り続けても、地球の端っこに激突することは有り得ないと言った先生の言葉が、ボクを完全にカラッポにした。
 先生の言葉は、蜘蛛の巣のように僕が抱いていた夢に絡みついた。いつもなら真面目に板書するボクも、この時ばかりはノートに落書きをしていた。少し歪んではいるけど、丸い地球が方程式の横に浮かぶ。ユーラシア大陸はうまく描けたけど、でもどこか納得のできない自分がいた。地球は丸くなんかない。きっと。いや、絶対に。
 授業を受けていたときのみんなの様子は、あたかも恐竜の図鑑を見ているかのように他人事だった。当たり前のように、地球は丸くて地面が動いていることを信じていた。ウンウンと頷く生徒を見て、誇らしげに笑う先生の顔は見ていられなかった。こうやってボクらは大人の幻想に侵されていくんだなということを小学校三年生ながらヒシヒシと感じていた。

 「あぁ…地球の端っこに立って釣りをするのが夢だったのになぁ。」
学校で地球球体説という子供には信じがたい事実を突き付けられたその日の帰り道に、キミはボソッと呟いた。羽化したての蝉がいかに美しいかを熱弁していたと思いきや、急に肩を落とした。そして、ガッカリと言わんばかりにわかりやすくため息を吐いた。そしてこう続けた。
「地球がさ、丸っこいのはわかったよ。でも、走っても坂道で転んだりしないじゃないか。」
「それは地球があまりにも大きいから、僕らでは体感できないって先生が言っていたよ。」
「ふうぅん。そっか。よくわからないけどさ。なんかなぁ…残念。」

 キミが想像していた地球は一体どんなものだったのだろう。頭のなかで創り上げていた世界が音を立てて崩れてしまったような、そんなキミの残念そうな横顔が家に帰ってからも頭から離れなかった。
 はるか昔の地球の人間は、地球は丸くなんかなく端っこにいけば滝のように水が流れ落ちていると信じていたらしい。そしてボクもキミも全く同じ発想をしていたわけだ。それが急にそんなことはないと、お前らの抱いていることは間違っていると全否定されたから、こんなことになっている。
 いつもは近所の公園でパートから帰ってくるキミのお母さんを一緒に待っていたけど、この日は自然と解散になった。キミが住むマンションの下に着いたところで、悔しそうにこう言った。
「おれ、やっぱり信じない。地球に端っこはある。」
「ぼ、ボクだって信じてないよ!いつか確かめにいこう。」
後に引くにも引けず、振り返ればボクの人生はこの日のキミとの会話を境に大いに狂っていったのだった。あの日から十年も経った今もずっとこれに振り回されることになるとは、当時は予想などしていなかった。

 キミとボクは、身の回りにある不思議なことにトコトン首を突っ込む小学生だった。先生からしたらすこぶる面倒な生徒だったに違いない。休み時間が終わるぐらいまで先生に食って掛かる様子は職員室でも話題になっていたらしい。理解ができない日本語の表現はもちろん、本能寺で織田信長が死んだのは本当か、円周率はなぜ三なのか、生き物に関することや特に宇宙の話になるとキミとボクは止まらなかった。理科の授業のあとは特に逃げるようにして教室から走って出ていく先生の気持ちを、今ならわかってあげられる気がした。ボクたちは好奇心が旺盛であるがゆえにキョウイクしにくい面倒な生徒だったんだ。
 大人に聞けば答えを教えてくれるからね、なんて文言が噓っぱちであったことは当時の僕たちでもわかっていた。何もわかっちゃいない。でも、地球が丸いと先生は言い切った。教科書にはそう書いてあるかもしれないけど、それだけじゃキミとボクが納得いかないだろうってことを先生もわかっていた。事実、鐘が鳴った瞬間、火事でも起きたかのだろうか、走り去っていく先生の後ろ姿は一瞬で見えなくなった。
 結局のところ自分の五感で確かめたことが辞書になる。いつの日かの冒険家がいかにも言いそうな根拠のない言葉の方が、ボクらにはまだ腑に落ちた。

 衝撃的な一日ののち、その週末に電車に乗って近所の百貨店に行った。五階のプラモデルとかが売られているコーナーに地球儀は売られていた。視界に入ったとき目を閉じたくなった。動物園に行って、生まれて初めて蛇を見た時と同じような感覚になった。信じられない。こんな生き物がこの世にいてたまるか、といった感じだった。
 その地球儀はボクが知っているどんなものよりも丸く、角がなかった。見事な球体だった。学校で習った帰り道にキミが呟く前からボクも疑問に思っていた。実際に確認もしていないのに、丸いなんて言えないじゃないか。第一に誰が言ったんだよって話だ。地球には無慈悲にも長い棒が斜めに刺さり、物知り顔で自転をしていた。一万五千円もする。フリガナでは、ゼンジドウ…なんだよ、それ。すると、悔しそうに地球儀を見つめるボクに先生と同じぐらいの年齢のおじさん店員さんが話しかけてきた。
「ぼく、またお年玉を貯めて買いに来てね。」
 地球には端っこがあって、崖になっている。そこから飛び降りてやってもいい。もし端っこに階段があるなら、”果て”を求めて駆け下りていくんだ。どこまで続いているのか想像できないけど、地球の下側には、きっともう一つの平たい地球があって、そこには今の地球が落とした歴史や財産がたくさん眠っているんだ。少なくともボクの世界ではそういうことになっている。
「ボクが住んでいる地球は丸くなんかない。」
 去り際に、勇気を振り絞って言ってやった。テレビで見て知った単語がある。チュウネンだ。チュウネンのおじさんって生き物は、決まってボクの世界を壊そうとするのだった。

続く→【小説】ハシッコから釣り糸垂らして。-第二話にして最終話-

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?