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【心の病が良くなりたい人へ】良くなりたいなら、何か一つで良いから愛するものを見つけてみたら?(創作大賞応募作品)

ある方との会話でこんな質問がありました。

「あなたの過去に精神科医から『入院しなさい』と
言われるようなそんなひどい精神状態で
とても辛い時期があったのに
そこからどうやって今の状態ように
良くなっていったのですか?」

そのような質問ありましたので
それについて書きたいと思います。

結論から言うと

「何か愛するものを外界に
見つけたから良くなった」ということです。

答えはシンプルですよね?
これを読んでいる方はもしかして
「えっ?」と思われたかもしれません。
でも自分がまずしたことと言えば、これでした。

具体的にそれはどういうことなのか?
まずは自分がどれだけひどい状態だったのか
その『黒歴史』とも言える時期のことについて記し
そしてそこからに何をしてきたのか
またどうやって自分を愛せるように
なっていったのかを4話に分け書きたいと思います。


第1話

私は今までの人生のなかで二度にわたる
ひどい精神状態の時がありました。

1回目は新卒で社会人になりたての23歳の時。
そして2回目はとある大手企業の出向先にて
大規模プロジェクトのチームリーダーを任された
時です。特にその2回目はとてもひどいものでした。

私はその当時、東京で働いていました。
自分の職場があったのが40階程度の高層ビル。
その中の38階ぐらいの高さのところで
働いていました。毎日、職場に行くのに
いつも高層ビル内のエレベーターを乗り継がないと
行くことができません。私が調子が悪くなっていくと
そのエレベーターに乗ることがとても苦痛に感じ
心臓がバクバクと動悸もするようになりました。
終いにはエレベーターに乗ると
呼吸がまともにできなくなりました。
しかし、なんとか職場の人たちに迷惑を
かけてはいけないと自分を誤魔化しながら
職場に行っていたのです。

私は自分の会社へ正直に今のこの状態を
話しました。そして休職をすることに
なったのです。この休職をしている間は北海道の
実家へ頻繫によく帰りました。
しかしながら、休職中は必ず毎週末に自分の
健康状態を会社に報告しなくては
なりませんでした。それがとてもとても辛かった…。
とてもじゃないけどゆっくり休んでいる気には
なれなかったのです。それと同時に会社を休んで
いることにも罪悪感を覚える日々でした。

そして私は、会社へは復帰することができず
そのまま退職をすることになってしまいました。
その頃は、電車や飛行機に乗ることさえも
とても大変でした。ある時は北海道へ飛ぶ飛行機の
なかでCAに見守られながら、機体後方部の空席で
到着するまで横になっていたこともありました。

東京にある自分の家をそのまま残した状態で
北海道の実家に帰り、そこでひきこもっては
東京で通院している病院へ毎月通うために
東京に戻るということを数か月繰り返して
いました。当然、この時はまったく仕事が
出来ていませんでした。

そして春が訪れた頃、私はついに東京での
自分の家を引き払い、実家に戻ることにしました。
この時、なんとも言えない自分にたいする無力感と
無価値感そして抑うつ感。また漠然とした将来への
不安感と社会復帰をして働くことへの恐怖感を
この頃は常にとても強く感じていました。

そんな自分はちょっとしたことで
「あーやっぱりダメだ」というレッテルを
自分へ貼りまくっていました。
そして「こんな人生なら死んでいい」と
思っていました。そうすると自分の心の中から
「死にたい」という声がどんどん聞こえるように
なってきたのです。これが巷で言う『希死念慮』
というものです。これを乗り越えるには
とても苦労しました。

そんな状態が、東京の自分の家を引き払い
北海道の実家に戻った後も数か月続きました。

私は数年前にそんな黒歴史のある人物です。

しかしながら今は病院にも行かず
黒歴史なんて感じさせないほどの元気さを
取り戻しました。今では仕事もそうですが
大好きな趣味があり、また通信制大学にも在学
しており、その大学で学んでいることに関連してた
街づくりについてのイベントもボランティアで
開催したり、様々な活動を行っています。

では、なぜそのように変容できたのか?

ここからはそんな私がどうやって
少しずつ良くなっていったのかを
書いていきたいと思います。

第2話

私が東京の家を完全に引き払い
北海道にある実家へ戻った年の春頃。

私は実家に戻ってからは、朝がまともには
起きれないという日々を過ごしていました。
まともには起きれないというのは
毎朝決まった時間に起きることができない。
ましては朝に布団から出ることさえできない
という状況でした。

当時は朝食なんて食べる気にもなりません。
ただ、バナナだけはよく朝食で食べていました。
これには理由があって、どこかで聞いた話ですが
鬱や不安を緩和するには脳内で作られる
「セロトニン」という神経伝達物質が関係
していると。そしてそれを作っているのが
必須アミノ酸の「トリプトファン」であり
それを含んでいるバナナが良いということで
そればっかり食べていたのです。

昼にはようやくご飯が少し食べれて
夜は朝よりも気持ちが落ち着くため
やっとまともにご飯が食べれるそんな日々でした。
とにかく朝が、精神的に辛かったのです。

そして身体は瘦せ細り体重は
みるみるうちに落ちていました。
私は178cm身長があるのですが
その当時の体重は56kg…身長から計算した
BMIの適性体重は約70kgなので
かなり瘦せていました。

仕事はできず、毎日、実家の奥の部屋で
布団の上で寝っ転がりながらスマホを見る生活…。
当時はきっと親も、こんな私を見兼ねて
どうしたらいいのか分からず
とても困っていたと思います。
またずっと寝っ転がっていたので
布団がカビたりもしました。
それほど生きる気力などありませんでした。

私の実家がある北海道は、5月がまだ寒く
6月ぐらいから暖かくになるにつれて
少しずつ外に出ることも出来てきました。
気づけば、外ではこんなにも緑や花が
咲いているんだなと思いました。
この頃、心身の調子が良くなったり悪くなったりを
繰り返していました。そして少しずつですが
家族以外の人にも会うことが出来るように
なっていきました。しかし、いきなり初対面の
人に会うのは、最初はハードルが高いので
気を遣うことなく話せる人が良い
そう思いました。幸いにも地元だったので
自分には気兼ねなくお話することができる
知り合いがいました。そういった人とお話を
することで家族以外の人にも初対面の人にも
少しずつ次第にお話することが
出来るようになりました。

それでも自分には全くもって
自信がありませんでした。
そして常に不安を抱えている状態で
「自分はこの先、どうしたら良いのだろう?」
とよく毎日思っていました。

今、私がこれについて書いている手前で
この年の冬頃になるぐらいまで
何をしていたんだろう?と、自分のスマホで
撮影した写真を見返してみたのですが
圧倒的この頃に写真が少なかったです。
色々と苦しんでいた時期なんだと思います。

さらに年明けの冬。

一つ覚えているのが、知り合いの雑貨屋から
「アクセサリーをちょっと作ってみない?」
と誘われた時のことでした。
初めての金属を使ったアクセサリー作りでした。
その時に何かベンチで曲げるような作業をしている
拍子に、アクセサリーを繋げる金属の留め具が
切れてしまいました。私はその時にまるで
この世が終わるような衝撃的な感情が自分のなかに
走ったのです。これは大袈裟な書き方を
していると思われるかもしれませんが
当時は、本当にそのように感じました。
そして私は泣き叫んで、アクセサリーを作ることが
出来ませんでした。今では信じられませんが
何か嫌なことが起きると、当時は一事が万事。
すべてが終わったような気持ちになるのでした。

またこの冬の時期には
希死念慮がとても強かったことも覚えています。
とにかく「死にたい」という言葉が
自分の内側から聞こえてくるのです。

この頃、医者や親、また周りの方から
「精神科に入院したほうが良い」
とも言われたことがありました。
しかし、私は精神科の入院が
どういったものかは知人の方の経験話から
絶対にしたくないと思っていた為
精神科医に進められても、頑なに断っていました。

この希死念慮を良くしようと
数万円かけてカウンセリングを
受けたこともありました。

私がそこで学んだことは
「自分が死にたいという感情を感じ切る」
「死にたいは『よく生きたい』の裏返し」

ということでした。

つまり自分のその死にたいという声は否定せずに
「そうなんだね。辛いんだよね」と
自分がまるで、自分と友達になっていくような
プロセスを踏みながら、自分の感情と思考を
認めていくということを繰り返していました。

こうすることで私は少しずつですが
希死念慮が消えていきました。
これにはだいぶ時間がかかりました。
おそらく1年ぐらいはかかったのでは
ないでしょうか。気づいたらそんな自分の声が
聞こえなくなったという感じです。

さて、ここからは私が本当に良くなるきっかけ
となった出来事を書かせて頂きます。

第3話

ここまでにお伝えしてきたように
私が東京から戻ってきた年(20XX年)と
その翌年というのは最も辛いことが多い時期でした。

例えば、東京から北海道へ戻ってきたものの
落ち着かない自分を奇妙な目で見られたり
変人扱いをされたり…。
今までの地元の友達や助けてくれた人が
私の精神情緒不安定な状態を見兼ねて
離れていったり…。
また幼なじみの唯一無二の晴れ舞台である
結婚式に行けなかったこともありました。

あるいはその共通の友人も遠方での結婚式を
挙げることになりましたが、調子が悪いながらも
遠方へ行き、2次会までがんばって参加したのに
その2次会でショックな出来事により
心身ともに具合悪くなってしまい
帰省はバスで横になりながらも
なんとか帰宅したこともありました。
ここでは書ききれない辛いことが
本当にたくさんありました。

また前回にお伝えした希死念慮ですが
何度か、本当に死んでみようと
包丁を取り出して、自分の身体を
刺そうとしたこともありました。
その様子見ていた母親が必死で
私から包丁を取り上げたこともありました。
このことは今では親に本当に迷惑をかけてしまい
辛い思いをさせてしまったと今でも思い出すと
本当に申し訳無い気持ちでいっぱいです。

しかしながら悪いことばかりではなく
東京から実家に戻ってきた年の冬頃から
こんなボロボロの自分をいつもよく
支えてくれる人に幸いにも巡り会いました。
こういった存在は、当時を振り返れば
本当に大きかったです。おそらくこの方の存在が
いなければ、今の私はいなかったでしょう。

また翌年の春ごろから、私はよく外に出て
自然と触れ合うようになってきました。
この頃のスマホの写真を見返してみると
やけに庭やガーデンのお花や草木の写真を
撮っていることが多いです。
私はどうやら自然の素晴らしさに
魅了していったようです。

そしていつの間にかこう考えるようになりました。
「自分は結局死にたくても死ねないんだ。
ならちょっとでも生きてみよう。
そしてどうせ生きるならこの世で
私が一生愛せるものが、何か見つけたい…」

そう考えるようになりました。

そこから私は自分のことよりも
外に意識を向く
ようになっていったのです。
それでなんとなく思いついたのが、
「フラワーアレンジメントを作ってみたい!」
ということでした。それを機に、その年の夏は
フラワーアレンジメントづくりの体験をしてみたり
その経験がある知人にお願いして
教えてもらったりしました。
それをしていた時には、時間を忘れるほど
とても楽しかったのを覚えています。

そしてそこで私は気づいたのです。
「私が探していた
一生愛せるものとは『花』だ!」
ということ。
花は人類の歴史上、不思議とご縁のあるものです。
昔から身近にあるものでもありますが
冠婚葬祭のような人が生きる上での様々な
ライフイベントには必ずと言っていいほど
お花の存在がありますよね。
ちょっとしたお祝いごとにもお花は
使われます。私はこの『花』という存在を
とても愛おしく感じるようになったのです。

また不思議だったのが、私はITを本業と
していましたが、その経験がフラワー
アレンジメントにもとても役に立ったのです。
何が役にたったかというとそれは「色」です。
私はITの中でもWebデザインに関わる
仕事をしていました。またこの仕事をしたいと
思ったきっかけも「デザイン」「色」
好きというところからでした。
「花の形と色は千差万別」
そう考えると益々興味深く思うようになり
本格的にフラワーアレンジメントを
学びたいと考えるようになりました。

そして秋頃。とある方の紹介でハロウィンに
ちなんだフラワーアレンジメント作りの
体験会に参加しました。そこで作り方を
教えてくださった先生がとても優しい方で
私に自由に作らせてくれました。
とても楽しくて、生き生きと伸び伸びと
作ることができたのです。

今まで、色々な方の体験はさせて頂いたのですが
なぜかその際はピンっときませんでした。
でもこの先生には何かご縁みたいなのを
当時、感じました。さらには華道の師範であり
生け花のご指導もされる先生でした。
華道の流派としても生け花と
フラワーアレンジメントの両方を行うという
とても興味深い流派でしたので
「この先生のもとで学んでみたい」
そう思うようになったのです。

この先生が今ではいつもお世話になっている
私のお花の先生であり、大切な方です。

私はこのように少しずつ元気に
なっていきました。

つまり私がお花と出会えたことが
人生を大きく変えたのです。

次は私が吹っ切れてついに病院に行く必要が
無くなった時のお話をしましょう。

第4話

東京から北海道の実家へ戻ってきた翌年の秋頃。

「私はお花が好き。
このことなら一生携わりたい。
そして花に携わりながら
生きるだけ生きていきたい」

自分が何か一生愛せるモノが見つかった。
それは新たな発見と同時に
この上ない喜びでした。

本当に嬉しかったです。

そう思えた自分はこの頃から
少しずつ言動が変わっていきました。

同じ年の冬に近づく頃。ある日のことです。
急に私の右足が、とても調子悪くなりました。
それは歩くのもしんどいぐらい痛く
歩行が困難になりました。
しかし、整形外科やペインクリニックに
行きましたがレントゲンを撮ってみても
何も異常は見つかりません。
おそらく坐骨神経痛なのではないかということで
痛み止めとビタミン剤を処方されただけでした。

でもおかしいのです。
歩くと足の内部が突っ張るように痛い。
強い神経痛がしました。
またこの時期は冬なので北海道の冬は
お分かりの通りとても寒い…。
そのため、この時は私は足を温めることを
意識的に行いました。また坐骨の歪みが
神経を圧迫している場合もあるので
整体や整骨院に行ったり、体操や
ストレッチ等無理のない範囲で行いました。

なおこの時もまだ通院していた病院はありました。
しかし、私は今までいくつも転院を
繰り返していました。
その理由はなかなか先生との
相性が合わなかったのです。
ただ幸いにもこの冬の時期に
新たな転院先の先生との相性が
良い病院と巡り会いました。
自分がこの病院でこの足の痛みと
メンタルを良くすることによって
この病院を卒業することを目標にしようと
考えるようになったのです。
これは本当に、素晴らしい進展でした。

さらには単発のお仕事なども
行うことが出来ていったのです。
これも少しずつですががんばっていました。

ただ翌年の冬にはこんなことがありました。
私は実家の2階の部屋で暮らしていました。
また同じ屋根の下にいるのは
祖母と母でした。祖母は高齢になって
耳が良く聞こえません。私の母は
そんな祖母をいつも介護しながら
面倒を見ていました。

真冬のある日ですが、母が買物などのために
外出していきました。その日、私の右足が
とても調子が悪く、階段の昇り降りを
することでさえやっとでした。この寒い時期に
私の部屋は元々、備え付けのストーブはなく
あるのは灯油式ファンヒーターした。
そんな時にこの暖房が使えなくなると
私の部屋の室温は氷点下近くまでに
なるとても寒い部屋でした。
また私がいる2階は他も部屋が
ありましたが納戸のように物が置いてあり
誰も使っていなかったので
余計に寒かったのです。

私は足が痛いので自分の狭い部屋のなかで
布団を敷いて横になっていました。
そんなとき、ファンヒーターの給油ランプが付き
もうすぐで灯油が無くなる効果音が
鳴りました。
「えっ!?」と、私は思いました。
「こんな足が痛く
しかも母もいない時になんてことだ…。」
この時、とても困りました。
灯油を給油をするには
外のガレージから、重い灯油のポリタンクを
家へ運び、ファンヒーターの給油タンクに
移し替えなければなりませんでした。
一緒に住んでいる祖母は、年齢が90歳近くにも
なる高齢者です。祖母は1階の居間に
ストーブがあるところにいつもいましたが
やっとのことで歩行している祖母には
もちろんそんな給油をすることなんて出来ません。
本当にどうしたらいいのか困りました。

部屋で1人、痛い足を抱えながら
時間が経つにつれ私の気持ちと思考が
どんどんネガティブになっていきます。
「母はまだ外出したばかり。
いつ帰ってくるなんてわからない…。」
「この状況を1階にいるばあちゃんは
気づいてもくれないし
この給油することもできない」
「このままだと自分は凍え死んでしまう。
俺は、寒い中で死んでしまうのだろうか…」
そう考えるととても悲しい気持ちになりました。

またこの時ですが、親しい友達などは
ほとんどいませんでした。
何せ私のこの精神状態を見兼ねて
みんな去っていったのですから。
それを考えるとさらにとても
寂しい気持ちになりました。

「このままでは下手したら
本当に死に至る…。
なんでこんなやりたいことが
せっかく見つかったのに…。
こんなところで
まだ
死にたくなんて
無い・・・・!!

そう私は死にたかったのではなく
本当はもっと生きたかったのです。

この時に大粒の涙が溢れました。
あれだけ死にたいと考えていたのに
実は本当は死にたくなかったのです。

そしてまた私はこうも考えました。
「でも人はどうせ、いずれみな死ぬんだ…。
それなら、やりたいようにやってから
死んでやる!!」

私はこの状況でもできる限りのことを
やろうと考えました。
まず右足の湿布を貼り直しました。
そして湿布を貼っていない部分に
液状のボルタレンを塗って
そこからインナーの暖かいものを着て
外に出る準備をしました。

足の痛みは歩行するよりも
足を上げ下げするときに特に痛みました。
それならと多少の痛さをこらえながらも
ファンヒーターの給油タンクを落としながら
階段を這うように降りていきました。

そして玄関に灯油タンクを置き
そこから外へ…。多少の雪かきを
しながらガレージへ向かいます。
ガレージの中から重い灯油のポリタンクを
取り出し、それを少しずつ運びながら
玄関にやっとのことで戻りました。
その玄関で腰を掛けながら
なんとかその給油タンクに
灯油を移し替えることができました。

そして少し軽くなったポリタンクは
運びやすくて、ガレージに戻すことが
できました。また給油タンクも
階段をなんと持ちながら上がることで
自分の部屋へ運び入れることが出来ました。

無事、給油に成功。
安堵した気持ちになりました。

この時の一連についてですが
今から思えば、当時私は少し大袈裟に
考えていたかもしれません。
なぜなら冷静に考えれば
1階に祖母がいるので大人しく
母の帰りを待つことも出来たのでは
ないかと思うのです。

しかしながら当時はまだメンタルが
不安定な時でもあり、そのせいか
考え方が視野狭窄になりながらも
本当の自分は「まだ死にたくないんだ」
ということが分かったのです。
これは自分にとっておおきな進歩でした。

それから暖かくなり春が訪れ。
私はついに病院から処方されている薬を
飲まなくても良くなりました。
今まで痛かった右足が良くなり
そしてメンタルも良くなったからです。
「やっとここまできたのか!」
とても嬉しいかったのを覚えています。
ただし、先生からはすぐに通院終了
というわけではなく
「少し様子を見ましょう!」
と言われました。断薬後、症状を
ぶり返すことがあるからです。

しかし、私はもう薬はいらない。
そう強く思いました。
なぜなら私は
「一生愛せるものが見つかったら。
一生関わりたものが見つかったら。」

そんな心持ちでいました。

そして約2~3か月後に通院終了。
長い長い通院生活にピリオドを打ったのです。

その通院終了後、私は今まで以上に
仕事も出来るようになりました。
フリーランスとしてどんどん仕事をできるように
なっていったのです。

今思えば、本当にここまでになったのは
長くて長くて。通常の人の何倍も
かかったのではないかと思うぐらいです。

本当にここまでの道のりは長いものでした。

私はまだ幸いな方だったかもしれません。
なぜなら自分が一生愛せるもの
携わりたいものが見つかったからです。
そしてそれを通して私は自己受容が
できるようにセルフイメージが
変わっていったのです。

ダメな自分、良い自分も
色々な自分を自分ですべてを
認めることができるようになっていったのです。

そして学んだことがもう一つありました。
それは

「自分が感じる全ての感情の味方は自分である」

これは私が苦しんでいた時に
私をいつも支えてくれた人が
教えてくれた言葉でした。

また私は今ではお花に関することだけではなく
元気に様々な活動をしています。

ここまで元気になるまで
本当に多くの方が支えてくれました。
とても感謝をしております。

今回は私の経験が
誰かのお役に立てればと思い
書かせて頂きました。

このエッセイがもし誰かのお役に
立ってくれたらとても嬉しいです。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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