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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その一 おけいの一件始末 12

 辰巳屋から知らせが来たのは、夕餉が済んだ頃だった。

 清次郎と惣太郎は、すぐさま宿へと向かった。

 辰巳屋には人だかりができている。野次馬が清次郎と惣太郎の顔を認めると、さっと道を開ける。

 中に入ると、土間に鍋や碗、箸が散らばっている。割れた徳利の破片が、囲炉裏の火に照らされて、きらきらと輝いている。

 ひとりの男が土間にどかりと胡坐を掻き、何やら訳の分からないことをほざいている。

 松太郎であろう。

 なるほど、これは酒乱だ。

「ばろう、られだれ、られ。おれいをだれ、おれいを」

 完全に舌が回っていない。

「どうやら、酒を出せ、おけいという女を出せと言っているようなんです」

 辰巳屋の主人が寄ってきて、清次郎に耳打ちした。

 聞けば、昼から飲んでいるらしい。

「こちらに来てからすぐに、中村さまからのお達しがございましたので、ああ、この男だなと思ったんですが、しかし、素面(しらふ)のときは驚くほど大人しい男で、えっ、そこにいたんですかってぐらい、影の薄い男なんです。それが、酒を飲むとよくしゃべる、よくしゃべる、満徳寺の役人は、人の女房を手篭めにしているとか、おけいのやつ、絶対に許しはしねぇとか、酒がどんどん入ると、口調も態度も乱暴になってきて、徳利や猪口を叩きつけるように置くわ、床板をどんどん踏み鳴らすわ、他のお客に迷惑になりますし、挙句に、いまからおけいを取り戻しにいくとか、満徳寺の役人を殺しにいくとか物騒なことを申しますので、さすがに、もうお止(よ)しなさいよと言ったんです。そしたら……」

 暴れだしたらしい。

 それも手のつけられないような暴れっぷりで、宿の男衆が寄ってたかって押さえつけようとしても、跳ね飛ばすほどの強力(ごうりき)である。

「あんなにひ弱そうに見えるのに、人は分かりませんな」

「なに、酒のなせる技さ、碌でもない」

 と、清次郎は吐き捨てた。そして、迷惑をかけたと主人の袖に金を押し込んだ。

「さてと……、おい、上州足門村の松太郎だな」

 声をかけると、首を垂れてぶつぶつ言っていた男が顔をあげた。体の線も細いが、顔もひょろっと細長い。それが、頬から鼻頭から、耳に至るまで真っ赤にしているのだ。まるで人参である。真夏のお日様でも見つめるように眉を歪め、弛んだ口元から涎が垂れ落ちていた。

「られら、おらえ」

 惣太郎には、聞き取れなかった。が、多分、「誰だ、お前」と訊いたのだろう。

「徳川満徳寺寺役、中村清次郎だ」

 同じく、惣太郎も名乗った。

「まんろるりら、おらえらがまんろるりのらくにんか」

 もう何を言っているのか分からない。まともに話もできそうにない。

「おれいをられ、おれいを。ららなきゃ、ぶっろろすろ」

 松太郎はのっそりと立ち上がる。見ると、右手に割れた徳利を持っている。鋭利なほうを清次郎の向ける。右へ左へと揺れている。

 野次馬たちが、ざっと後退る。

 惣太郎も、一歩下がる。

 清次郎は、何事もないように立ち尽くしている。

 ぱちん、ぱちんと薪(たきぎ)の火が弾ける。

「お前を呼んだ覚えはないぞ、松太郎。村へ帰れ」

 清次郎は静かに言った。

 聊かの動揺も見せていない。

 こちらは、口の中が乾いてしょうがないのに。

 聞えなかったのか、松太郎は焦点の合わない目で清次郎を見据え、囲炉裏の炎と同調するように、ゆらゆらと揺れている。

「もう一度言うぞ、村へ帰れ」

「おれいは、おれのものら!」

「聞き分けならんか、村へ帰れ!」

「おれいは、おれのものら!」

 その問答が数度繰り返されたあと、怒りが頂点に達した松太郎が、割れた徳利を振りかざして飛び掛ってきた。

 予期はしていたが、まるで猪のような突進に、惣太郎は思わず背中を向けて逃げてしまった。

 野次馬も、わっと蜘蛛の子を散らすように逃げ回る。

「やっ!」

 と、鋭い声が響き渡る。

 ぎょっと振り返ると、清次郎の足元に、酔っ払いがぶっ倒れている。まるで烏のように、がーこ、がーこと高鼾だ。割れた徳利は土間の隅に転がっていた。

「中村さま、いったい何が」

「いえ、ちょっと」と、清次郎は右手を振りながら鼻で笑った。

 清次郎は、宿の男衆に、大虎に縄をかけさせ、寺まで運ぶように指示した。主人には、三田屋に泊まっている足門村の住人に寺まで来るように伝えてくれと言って、寺に戻った。

 和助と新右衛門が飛んできた。

 調所の真ん中に丸太のように転がっている松太郎を見て驚き、彼がしたことに対してまた驚き、額を擦り付けて何度も謝った。

 処罰を覚悟していた様子だったが、清次郎からは特にお咎めもなかった。

 むしろ、

「朝まで面倒をみてやれ」

 と優しく言って、役宅に下がっていった。

 惣太郎も部屋に戻ると、父と母はすでに床に着いていた。

 起こさないように、そっと寝床に潜ると、

「ご苦労様です、惣太郎」

 母が声をかけた。

「起こしましたか、すみません」

「いえ、起きてたのです。どうですか、上手く事は運びましたか」

 何とも答えられなかった。実のところ、清次郎が何を考えているのか、一向に分からない。酒癖の悪い男に酒を飲ませろと言ってみたり、案の定酔った松太郎に村へ戻れと叱ってみたり、そうかと思えば、介抱してやれと優しくしてみたり。

 何が何やらである。

 清次郎は、いつもあんな禅問答のような仕事をしているのだろうか。それとも、ああやって当事者が困惑するのを見て楽しんでいるのだろうか。

 だとすると、誉められた事ではないなと正直思う。

「母上、私はどうも、あの方は好きになれません」

 返答の代わりに、静かな寝息が聞えてきた。

 清次郎も、いまごろ満足に眠っているのだろうか。

 それに比べて惣太郎は、頭が冴えて眠れない。

 何度も寝返りを打つうちに、ようやくうつらうつらとしてきたところで、夜が明けてしまった。

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