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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 3

 寺社奉行と北町奉行の間で、妥協が図られた。政吉が訴えを取り下げる代わりに、おはまが帰縁するというものだ。

 おはまはもちろんのことだが、それまで散々骨を折ってきた宋左衛門にしても、とても受け入れがたい扱いだった。

 宋左衛門は、再度折衝してくれと寺社奉行の用人に頼み込んだが、もはや決まったこと、寺役人は御奉行のご意向に従い、おはまを説得して家に戻させろ、もし拒むなら、強制的にでも追い出せという非常な返事だった。

『当時の御奉行さまは、老中に決まっておってな。役目を退く間際で、面倒なことを抱え込みたくはなかったということだ』

『それは酷い』

『なに、お役人とはそう言うものだ。ひとりの女が幸せになろうがなるまいが、関係はないからのう』

 父にしては、随分辛辣なことを言うと、感じ入った様子で見入った。

 父も、自分の発言に気がつき、

『おっと、いまのは他言無用だぞ』

 と、念を押した。

 おはまの不幸な境遇はよく分かるし、縁切寺の役人として、いや、ひとりの男として、なんとかしてやりたい気持ちはある。が、宋左衛門もいち役人である。上の命には逆らえない、窮屈な身の上のなのである。

 宋左衛門は、すまないと心で詫びながら、おはまを説得した。

 どれほど怒るだろう、どれほど泣き喚くだろうと覚悟をしていた。

 しかし、おまははある程度察していたのか、泣きも怒りもせず、剰(あまつ)え宋左衛門に礼まで言って、地獄の釜へと戻っていった。

 父はそのとき、おはまの言った言葉が忘れられぬと、遠い目をしながら言った。

『ちょっとした幸せも、あたしは願っちゃいけないんですかね』

 そう言われたとき、父は背中に重たい荷物を背負わされたような気がしたらしい。

『おはまの件は、本当に心残りだった。できれば、ワシが寺役を退くまでに、もう一度おはまが駆け込んでこないかと願ったこともあった』

 この夏、宋左衛門が倒れてしまった。体力も衰え、もうお役を続けていく気力もなくした。おはまの一件は悔いだが、ここらが潮時だと思った。

 お役御免の願いを出して、後継を惣太郎に指名した。

 寺社奉行所もそれを認め、春にはお役を退くことに決まった。

 その矢先、おはまが再び駆け込んできた。

 嘉平が慌てて、

『た、立木の旦那さま、お、おはまが、おはまが駆け込んでまいりました』

 と、伝えに来たときは、

『なに、真実(まこと)か!』

 自分でも、これほどの力がどこに眠っていたのだろうと呆れるほど、飛び上がって喜んでしまったらしい。

『縁切寺の役人が、女が駆け込んできて喜ぶとは、全く可笑しな話であろう』

 父は、からからと笑った。

『しかし、不思議なものだ。あれほど、もうこれ以上のお役目は難しいと考えておったのに、おはまの名を聞いただけで、全身の血が熱くなるというか、力が漲っていくというか、今度こそ、やってやるぞという気になったんじゃよ。あれはなんであろうか、例えるなら、恋のようなものかのう。ワシはおはまに恋をしておったのじゃろうかのぉ。わはははは……』

 宋左衛門は大声で笑った。

 が、息子としては、色惚け爺と呆れるばかり。

『母上には内緒だぞ』

 だれが言うかと思った。

『しかし、これでようやく、ワシも重荷が降ろせるときがきたと思った。今度こそは、政吉と離縁させ、小さな幸せでもいい、しっかりと掴んで欲しいと思った』

 宋左衛門は、長い戦(いくさ)になるだろうと覚悟をしていた。政吉は、今度も町方を動かして、妨害をするだろう、それならば、こちらも徹底抗戦してやろうと心を鼓舞した。

 案の定政吉は、またもや北町奉行所に訴え出た。理由はまた同じ。おはまの不義である。訴えた日付もずらしてきた。

『同じ手を使いやがって。だが、そんなのことは百も承知だ』

 町奉行所は、おはまを取調べるので寄越せと言ってきた。

 もちろん、拒否した。

 その後、『寄越せ』『否』『寄越せ』『否』の応酬である。

 その間に、寺役としてすべきことはする。

 おはまの身内――大家と組頭を呼び出し、事情を聞く。可哀想に、今度も大家と組頭は困惑気味な表情だ。おそらく、政吉に言いくるめられてきたのだろう。

『相変わらず汚い手を使いやがる』

 父は吐き捨てた。

 大家と組頭によるおはまへの説得は不調に終わり、といっても、全く説得もしなかったのだが、宋左衛門は決まりどおり政吉に呼状を出した。

 まあ当然、出頭してくることもなく、寺としては、寺法を守るため、寺社奉行に〝お声掛り〟を申請する次第になったわけである。

『しかし、大丈夫でしょうか、今度も寺社奉行と北町奉行の間で折り合いが図られ、おはまに政吉のもとへ戻れなどとなりませんでしょうか』

 惣太郎の、一番の懸案はそれである。

 が、宋左衛門は自信ありげに言った。

『それはない』

『なぜ、そう言いきれるのです』

『今度の寺社奉行さまはかなりの豪腕で、しかも負けず嫌いらしい。相手が町方となれば、是が非でも引き下がれんとなるだろう。それに、用人の御手洗さまも、なかなかの強情で、偏屈者だ。普段はあれやこれやと煩いが、相手が町奉行所となれば、その喧しさが有利になる。今度こそは、政吉を叩き潰せるぞ』

 父は、強く握った右手を、左の手の平に政吉という蚊がいるが如く、ぱんと叩きつけた。

 父は、おはまを幸せにしたいのだろうか、それとも前回政吉にいっぱい食わされた仇を取りたいのだろうかと首を傾げた。

『仔細は良く分かりました。父上の代わりに、私があちらの皆様と折衝すればよいということですね。ところで、そのおはまという女ですが、一度この目で見ておきたいのですが』

 宋左衛門は、なぜかと問うた。

『いえ、御手洗さまから、どんな雰囲気の女なのだと問われたら、答えようがありませんし、それに一応携わる一件の当事者の顔ぐらいは見ておかないと、と思いまして』

 確かにと父は頷いた。

『ならば、波江に頼もう。あやつが、おはまの世話をしておるからな』

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