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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 21

 —— 六月十三日

 使者の船史恵尺(ふねのふびとのえさか)が、蘇我の門を跨いだ。
屋敷は、飛鳥寺の騒ぎとは打って変わり静かであった。

「どうぞ、こちらへ」

 恵尺は、年老いた従者に案内された。

「随分静かだが、皆様方は?」

「お部屋にお揃いです。それに、従者たちにはお暇を出されましたから」

「お前は出て行かないのか?」

「いえ、私は長年、蘇我様にお使して来ましたから。いまさら屋敷を出たいとも思いません」

「そうか……」

 恵尺は、部屋の前まで案内された。

「大王の使者がお着きです」

 従者は戸を開けた。

 恵尺は一歩身を引いた。

 そこには、蘇我入鹿の遺体を前に、蘇我蝦夷を始め、妻子数十人が死装束で座っていた。

 その中には、赤子を抱える若い女の姿もあった —— 入鹿の妻子であろうか。

 その後ろには、木簡や仏像、宝物の類が山ほど積まれている。

「どうなされました、大王の御使者よ。どうぞ、こちらへ」

 恵尺は一瞬躊躇したが、蝦夷の前に座った。

「死装束とは、見事な御覚悟。しかし、御家族までとは解せませんな」

 恵尺は、彼女たちを見回した。

 誰も目を伏せている。

「当然、我ら全員、大郎の待つ黄泉国へと旅立つ覚悟を決めたのじゃ」

「お戯れを。死罪は、豊浦殿のみ。ご家族の道連れは、人の道に反しておりますぞ」

「人の道に反しておるじゃと? 人の道に反しておるのは、お前らではないか!」

 蝦夷の怒声が響き渡る。

 恵尺は答えない。

「お前らは、そんなに蘇我の財産が欲しいのか? そんなに蘇我の権力が欲しいのか? 欲しければくれてやるは!」

 蝦夷は、恵尺に巻物を投げつけた。

 恵尺はそれを手で防いだ。蝦夷を睨みつけた。

「毛人様、すべて終わりました」

 先ほどの従者が顔を出した。

 終わり……、何が終わりだ?

 恵尺は従者の方を振り返った。

 なにか、焦臭いぞ?

 畏まる従者の後ろから白い煙が上がっている。

「ま、まさか……」

 恵尺は、蝦夷と向き合った。

 蝦夷は、いつの間にか、火の付いた油皿を手に持っている。

「船史、大王とその腰巾着どもに伝えろ。そんなに欲しくばくれてやると。ただし、蘇我のものに触ったが最後、末代まで貴様たちを呪い続けてやるとな!」

 蝦夷はそう言うと、油皿を木簡の中に投げ込んだ。

 木簡は、勢いよく燃え始める。

 火は瞬く間に部屋中に広がっていく。

 油か!

「豊浦殿!」

 恵尺は、蝦夷たちに近づこうとしたが、ことのほか火の回りが速い。

 彼は、堪りかねて表に出た。

 手には、一巻の巻物があった。

「大王よ! この恨み、絶対に忘れんぞ! 我ら一族、この世に留まりて、永遠に祟ってやるわ!」

 蝦夷の怒りが聞こえた。

 女たちの叫び声が聞こえた。

 子供たちの泣き声が屋敷中に木霊した。

 炎が全てを焼き尽くす音が響き渡った………………

「葛城様、あれを」

 大伴長徳の指差す先の空は、真赤に染まっていた。

「蘇我が燃える」

 中臣鎌子は、そっと手を合わせた。

 この時、飛鳥寺の誰もがはっきりと耳にした。

 業火とともに、泣き叫ぶ女子の声を………………

 そして、蝦夷の恨みの声を………………

 飛鳥板蓋宮の宝大王の耳にも、それは聞こえた。

「だ、誰か! お、大戸を閉めておくれ! 豊浦が、豊浦が、豊浦の声が!」

 彼女は夜具に籠もり、震え続けた。

 その日、蘇我の屋敷が燃え落ちるまで、その声は飛鳥の里に響き渡った。

 蘇我本家の所領は、大王家のものとなるところが、これを宝大王が拒んだので、蘇我倉家が全てを引き継ぐこととなった。

 蘇我敏傍は、物部の屋敷に幽閉となったが、その他の者は許された。

 古人大兄は、飛鳥寺で仏門に入り、吉野へと下っていった。

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