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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 9

 彼女は、人としての幸せを捨て、婢として生きていくことに決めた。

 感情を持たず、ただの道具として ―― それは婢として立派な心掛けであった。

 だが、どれほど自分の感情を押し殺しても、どうすることもできない気持ちというものがある。

 人を好きになるという心だ。

 初めはその感情に戸惑い、持て余し、どう抑え込んでも溢れてくる気持ちに逆上せ上り、自分の決心が何度も揺らいだ。

 好きになっては駄目だ、好きになっては駄目だ、きっと後悔することになる、だから………………そうは思っても、この感情だけは抑えがきかない。

 もう駄目だ、抑えられないと思い始めた頃だった。

 その人は、この世から忽然と姿を消した。

 身も心も引きちぎられそうになりながらも、これで良かったのだと思った。

 そして、二度と人を好きにならないと誓った。

 それから婢として模範的な生活を送り、稲女や弟成、黒万呂たち等の仲間ができたが、決して心までは許さなかった。

 二度と過ちを犯し、自分の心を傷つけないために。

 だから、寺法頭の下氷雑物君に呼ばれ、市場で売りに出されると聞かされたとき、何の感情もわいてこなかった。

 むしろ、良かったと思っている ―― 自分の心が乱されなくて。

 海石榴市(つばいち:奈良県桜井市)で売りに出された。

 まだ少女に満たない年齢で、まわりの大人たちが稲八百束ぐらいで売りに出されていたので、自分に稲千束の値がつけられたときは驚いた。

 八重女は、まだ気が付いていなかったのだ ―― 彼女の容姿が他の婢たちよりもずば抜けて美しいということに。

 それが、彼女の価値であり、不幸でもあった。

 彼女は、稲千束で大伴家に引き取られた。

 そこでも、斑鳩寺と変わらない奴婢の生活が待っているのだろうと思った。

 が、待っていたのは、八重女の想像もつかない世界だった。

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