【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 3
百済宮を出た蘇我入鹿は、豊浦の屋敷にゆっくりと馬を進めていた。
春の日和には、まだまだ程遠い。
空を、灰色の雲が覆っている。
彼の頭の中も、灰色の何かに覆われていた。
彼は、大殿を出て来た時から、あることで頭が一杯だった。最後に言った宝大后の言葉だ。
それにしても、大后は妙なことを言う……いまのところとは……大后には、何か考えがお有りなのか?
彼は、そのことがずっと頭にあった。
そのため、もう少しで、むかしの友人をやり過ごしそうになった。
「大郎様、大郎様」
彼は、馬を引いていた従者の声で我に返った。
「大郎様、中臣様です」
従者の促す方向には、馬上に懐かしい顔があった。
中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)である。
「蘇我殿、お久しぶりです」
「おお、これは、中臣殿」
2人は馬を降りると、友好を確かめ合った。
「いつ、三嶋からお帰りに?」
と、訊いたのは入鹿であった。
「いまです。兄から大王様の葬礼の手伝いを言い渡されまして。それで、戻って来た報告を、いの一番に蘇我殿に伝えたかったのですが、生憎、大臣の名代で参内なされたと聞きましたの、途中で会えると思い、その足で参ったのですよ」
「そうでしたか。それでは、しばらく飛鳥に?」
「はい、葬りが終わるまでは。終わったら、また三嶋に戻りますけど」
「そうですか。どうですか、三嶋の生活は?」
「いや、田舎ですよ。何にもありません。暇に任せて、書物を読む毎日ですよ。あっ、蘇我殿、大切な木簡類、ありがとうございました。それと、書状も………………、私、あれで救われました。あの蘇我殿の言葉がなければ、私はまだ、難波津(なにわのつ)辺りで酒に溺れていたかも知れませ。本当に、ありがとうございました」
鎌子は頭を下げた。
「それは違いますよ、私は何もしていません。全て、ご自分のお力です」
入鹿は微笑んだ。
「そんな……」
「それよりも、落ち着いた場所で勉強ができるというのは、すばらしいことですよ」
「そうですね。しかし、少々暇すぎますね。飛鳥のような面白味がない」
「私は、あなたが羨ましい」
「そうですか? 私は、蘇我殿の方が羨ましい。蘇我殿は、未来が約束されておられる。今日も、大臣の名代で参内だし。それに比べて、私は三嶋の田舎暮らし。ますます差がついてしまうなあ」
「中臣殿、家柄など関係はありませんよ」
入鹿は静かに言った。
「そうでしょうか?」
「そうですよ」
「でも、大王は大王の家柄の人間しかなれませんし。大臣も大臣の家柄だけ。大連も大伴や物部の家柄だけだし、我が中臣は名前すら入りません。さらに言えば、貴族に生まれた家柄は何とか生活できますけど、庶民に生まれれば貧しい生活が待っています。まして、奴婢に生まれたら、一生こき使われて終わりですよ」
入鹿は、鎌子の話している姿を黙って眺めていた。
鎌子は、その視線に気付き慌てた。
「いえ、あの……、別に、蘇我殿が、どうだと言っている訳ではないのですよ。あくまでも一般論です、一般論」
「分かっていますよ」
入鹿の声は優しかった。
鎌子は安心した。
「中臣殿、私はね、身分など関係ないと思っていいます。本当に実力のある者が、国政に携わるべきだと考えています。蘇我だとか、大伴だとかで重要な地位に就けるなんて、馬鹿げた話ですよ。唐では、試験に受かった者は誰でも国政に参加できます。私は、そんな国作りを目指したい」
入鹿は、遥か彼方を見る目をしていた。
「だから、私は大臣になって、この国の根本を変えたいと思っているのですよ。いえ、変えて見せます」
「蘇我殿……」
「その時は、中臣殿、力を貸して頂けますか?」
入鹿は、鎌子の目を見た。
鎌子は、入鹿の目を見返した。
2人の目は、自分たちの、そして、この国の輝かしい未来を見ていた。
「もちろんです、蘇我殿」
そして、2人は固く握手を交わすのだった。
「ところで、今日の夜は空いていますか?」
「はい、もちろん、あっ……」
鎌子は、言い掛けて止めた。そして、入鹿に背を向け、頭を下げた。
そこには、1人の貴人が従者を引き連れ、通り過ぎて行った。
入鹿も、鎌子に倣って頭を下げた。
「いまの方は?」
入鹿は、まだ頭を下げている鎌子に訊いた。
「軽様です」
「軽様? ああ、あの方が、大后の弟君の軽皇子ですか」
「ええ……、あっ、今日の晩は大丈夫です」
「そうですか。では、久しぶりに旧交を温めましょう」
「はい、喜んで」
そして、2人はそれぞれの道に分かれた。
因みに、1人が後に古代史上の大悪人と呼ばれる蘇我入鹿であり、もう1人が葛城皇子と並び古代史上の英雄と称される中臣鎌足である。
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