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「少しも寒くない」 だけど・・・

MBTI(エムビーティーアイ:Myers-Briggs Type Indicator)のタイプのひとつ、INFJタイプ。
彼ら彼女らの人付き合いは基本穏やかで、秩序を乱すタイプでは決してないけれど、
ごく稀に、信じられないような行動を起こす。

それこそが、悪名高き、INFJのドアスラム

本当に、誰の幸せにもならない
何の解決にもならない

だけど、
最後の最後、
本当に分かり合う可能性が潰えたとき
私たちは扉を閉める。
その人たちを、もう自分の人生に関係のない人にしてしまって、そっと自分から離れていく。

ドアスラムとは、
人間関係で強いストレス下にある場合に起こりうる現象で、
どうやらINFJ特有らしい。

普段は温厚で寛容な人柄だから、
他人に対してイヤな感情をもったとしても、
これがその人の為人(ひととなり)なんだなぁで済ませて、許すようにしてる。

けれど、この許容には限りがある。
INFJは誰しも譲れない価値観をもっているから、というのもあるけど、
塵も積もって山となってしまったとか、
程度があまりにも目に余るとか。
そして何よりも、
その刃が、自分だけでなく、
他の人にも及ぼうとしているのならば、

いくら寛容といえども、許容範囲は超える。
いちど一線を超えたら、あとはもう一瞬。
一瞬のうちに、扉を閉め、心を閉ざして静かに身を引く。


そのくせして
いつもいつも、閉め出すたびに、
閉め出した相手からの、非難の謗り(そしり)が目に浮かぶ。

INFJとしては、
最後まで信じ続けたがゆえに、
その人たちの裏切りは絶望で。
そのくせに、裏切った自分は許せなくて。
あんなの、許すだけ無駄な奴だったんだと思いながら、
その奴と同じところまで、自分が堕ちていることに気づいてしまう。

この終わりのない罪悪感から自分の心を守ろうとして、
「私の行動をきっかけに、その人たちが自分たちの行動を振り返ってくれますように」
という、望みの薄い希望に縋る。

これは本当に望む意味もないような願望で、
たいていのひとは、INFJの想像どおり、
もういない私の痕にむかって、
文句と恨みと、自分の被った迷惑を好き放題吐きながら、
また同じことを繰り返す。

自分に迷惑をかけてきた相手に対して、
「どうしてこんな行動をとったんだろう」
まで考えが及ぶほどのお人好しは、
INFJくらいじゃないだろうか。

(だからこそ、INFJは最後まで、相手がいつかは理解してくれると望み続ける。
自分にできることは、相手にもできるんじゃないかって、そう思うのは誰にだって自然なことだから)

だけど、そんな希望的観測を信じようとするINFJを、
愚かだなんて絶対に思わない。
本人にとっては、この一縷の希望だけが、
最後の心の拠り所なのだから。

ほら、
誰も救われない。
何も解決していない。
ひたすら裏切り合って、
無駄に傷つけあうだけ。


INFJが誰にも言えずに抱え込んでしまうのが悪いのだろうか。

私は自分の本音を抱え込む常習犯(?)だけれど
どんな本音も受け入れる寛大な環境なくして、
「思ってることは全部言った方がいい」は
100%見せかけだと思う。
しばしば耳にする、「心理的安全性」の欠如
まさに、それ。

呪文のようにそう言っている人は、
何でも言っていいって言いながら、
自分に都合の悪いことと、理解できないことは
バッサリ否定して、『正解』を押し付ける。

よく喋る人ほど大して考えてないって、案外本当だよね。


なぜ人間の顔は、口がひとつしかないのに対し、耳はふたつあるのか。
ある長老は答えた。
『それは、我々にとって、喋ることよりも、聴くことの方が大切だからだ』と。


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なぜこんな話をしたかというと、
私の同居する親たちが、
自分にとってのドアスラムの対象になったからです。
もちろん同居しているから、すっぱり縁を切ったわけではなくて、
今でも必要な会話はするし、一緒にTVを観ながら談笑とかもするけれど、
本音を明かしたり、弱音を吐いたりできる相手ではなくなった。
これまでの友だちと同じように、
楽しそうなフリをして、愛想笑いを浮かべて、
上っ面だけは仲良さそうにしておいて、
自分の核心は隠す、そんな人たちに。

私はどうやら、
縁を切らないドアスラムをしてしまいがちみたい。
大学時代の友達、といわれて真っ先に思い浮かぶようなサークルの仲間たちもそうで、
深〜いわけがあって、大好きだった仲間たちに絶望して、それから卒業までの間であっても、心を閉ざし、感情を遮断し、慣れきった愛想笑いで完全防備しながらも、交流までは切らなかった。
まぁ卒業とともに自然消滅はするけれど。

思えば、
ここまでとはいかなくとも、
私の友だちの大半はそんな人たちな気がする。
そして、自分の親たちもそうなった。

最近、親や祖母が、私に対してちょっぴり機嫌が良くなった気がする。
でもそこに、温かい気持ちは浮かばない。
1人の時より、友だちと仲良く話しているときの方が孤独を感じるような、
そんな、感覚。


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ちょっと久しぶりに、
アナと雪の女王の「Let it go」を聴いた。

エルサが、あらゆるしがらみを振り切って、
これからは自分らしく生きようという姿
その凛々しさたるや

あまりにもポジティブに描かれているから気づきにくいけど、
本当はすごく寂しいことだと思う。

これまで、自分が我慢して、自らしがらみに捕らわれていたということは、
それだけ家族を愛していたということ。

愛していた家族を切り捨てなければ、自分らしく生きられなかった。
「自分らしさ」を取る代わりに、「家族のぬくもり」を捨てることにしただけ。

『少しも寒くないわ』
確かに、そう。
私たちは、1人でも完結させられる。
ひとり遊びでも十分満足できる。

だけど、そこに温もりはない。
峻拒してしまったのは自分だけれど、
手放したくて、手放したわけじゃない。

家族一人ひとりに、
大切な人を、どんなあなたでも大好きと、
そう、丸ごと受け入れる寛容さがあれば、
自分と家族を両立できただろうに

そう思いながら、悲観して、
叶わぬ願いだと自分に言い聞かせて諦めた
その結果が「Let it go」ではないか。


最後にもう一度繰り返そう。

『我々にとって、喋ることよりも、聴くことの方が大切である』と。



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