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火野佑亮の文化人チャンネル
2024年2月25日 16:41
神々ではなく人間の視点から捉えると、信仰に根拠はない。この「信仰の無根拠性」からホイジンガのいう「あほらしさ」が導き出されると考えられなくもない。
2024年2月22日 17:59
ホイジンガのいう「遊び」はエリアーデが論じるような「永遠回帰」ではない。本来性は志向されておらず、「そこから一歩踏み出し」た、「仮構の世界」と戯れるのである。ホイジンガは祭礼もまた、「遊び」の一種として論じているが、僕はここに、神道における祭りの精神と似通ったものを発見するのである。 もちろん上田賢治が述べるように、ホイジンガの概念を無批判に取り入れることはあってはならず、警戒を要する。ホイ
2024年2月16日 17:03
僕は現代社会を見えざる宗教戦争の舞台として捉えているので、いわゆる宗教に無頓着な人間にも、無意識的な信仰のあり方を認めます。 例えばこれも、広義の宗教問題と言えましょう。無意識的な信仰を可視化するところから始めなくては、資本が強いる物神崇拝に回収されるだけなのではないか(神道と資本主義の関係については下の記事でも考えています)。 神道人にとって高天原は、時にザインとして、時にゾルレンとし
2024年2月13日 11:23
nyunさんによれば「利潤」は「剰余価値」の現れ方の一つ。ディルクの「剰余労働」概念をマルクスは『剰余価値学説史』で批評し、発展させたものが「剰余価値」だという。 ポスト構造主義のエクリチュールについての議論と重なる。資本に対応するのがテクスト、労働に対応するのはエクリチュール?このあたりは詳しく掘り下げていきたい。追記、真の「富」について以前より考えていたことだがここにま
2023年4月15日 06:45
折口民俗学にて用いられる、「発生」という語。ここには手を加え、造り上げるという響きが欠けている。自ずから成る、という感覚が近いように感じられる。 『歴史意識の「古層」』を通して丸山眞男は、日本人における「なる」意識の過剰を問題視していた。自然のうちに宿る、霊力の絶え間ない成長・増殖。そのさまは記紀神話に生き生きと描写されている。 折口は「高皇産霊神・神皇産霊神、即むすびの神」を、「霊魂を与
2023年3月22日 21:25
【仮説】生成とは運動である。消滅とは運動である。言挙げもまた運動である。運動する万物には、世界の中心、不動の一点という裏付けが必要である。これすなわち、天之御中主神である。