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神道神学

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#神道

神々ではなく人間の視点から捉えると、信仰に根拠はない。
この「信仰の無根拠性」からホイジンガのいう「あほらしさ」が導き出されると考えられなくもない。

ホイジンガの「遊び」と神道における祭り

ホイジンガの「遊び」と神道における祭り

 ホイジンガのいう「遊び」はエリアーデが論じるような「永遠回帰」ではない。本来性は志向されておらず、「そこから一歩踏み出し」た、「仮構の世界」と戯れるのである。ホイジンガは祭礼もまた、「遊び」の一種として論じているが、僕はここに、神道における祭りの精神と似通ったものを発見するのである。

 もちろん上田賢治が述べるように、ホイジンガの概念を無批判に取り入れることはあってはならず、警戒を要する。ホイ

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資本主義と神道、ザインとゾルレン

資本主義と神道、ザインとゾルレン

 僕は現代社会を見えざる宗教戦争の舞台として捉えているので、いわゆる宗教に無頓着な人間にも、無意識的な信仰のあり方を認めます。

 例えばこれも、広義の宗教問題と言えましょう。無意識的な信仰を可視化するところから始めなくては、資本が強いる物神崇拝に回収されるだけなのではないか(神道と資本主義の関係については下の記事でも考えています)。

 神道人にとって高天原は、時にザインとして、時にゾルレンとし

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nyunさんの「剰余価値(Mehrwert)周辺の話、その2」を読んで

nyunさんの「剰余価値(Mehrwert)周辺の話、その2」を読んで

nyunさんによれば「利潤」は「剰余価値」の現れ方の一つ。
ディルクの「剰余労働」概念をマルクスは『剰余価値学説史』で批評し、発展させたものが「剰余価値」だという。



ポスト構造主義のエクリチュールについての議論と重なる。
資本に対応するのがテクスト、労働に対応するのはエクリチュール?
このあたりは詳しく掘り下げていきたい。

追記、真の「富」について

以前より考えていたことだがここにま

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ムスビと「発生」・「なる」

ムスビと「発生」・「なる」

 折口民俗学にて用いられる、「発生」という語。ここには手を加え、造り上げるという響きが欠けている。自ずから成る、という感覚が近いように感じられる。
 『歴史意識の「古層」』を通して丸山眞男は、日本人における「なる」意識の過剰を問題視していた。自然のうちに宿る、霊力の絶え間ない成長・増殖。そのさまは記紀神話に生き生きと描写されている。

 折口は「高皇産霊神・神皇産霊神、即むすびの神」を、「霊魂を与

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【仮説】生成とは運動である。消滅とは運動である。言挙げもまた運動である。
運動する万物には、世界の中心、不動の一点という裏付けが必要である。これすなわち、天之御中主神である。